『Noisy Life』side story
あの角を曲がるまで

(お題:秘めごと /「モノカキさんに30のお題」より)



 この世の終わりみたいな勢いで大泣きしてる友達の背中をなでてやりながら、私は半分上の空で思案に暮れていた。何て言ってこの思いを伝えようかということを。言い換えれば、いかにしてこの思いを口にせずに今の気持ちを伝えたものだろうかということを。答えは昨日の晩からこのかた、ずっと霧の中だ。
 分かっている。足りないのは、私の心意気なんだろう。
 うっかり口を滑らせたら、何を言い出すか分からないこのおのれの口が恐ろしいのである。三年間の高校生活の最終日にあたって、嘘偽らざる気持ちを言ったとしたら、どんな言葉で飾ったってしょせん恨み節になってしまうだろう。意地と嫉妬まみれの過去形のオンパレードだ。そんなのは、あの男の前で涙見せるのと同じぐらいごめんこうむりたい。
 そんな愁嘆場を、彼はきっと望んでない。どうせ今だって、薄っぺらい身体をすぼめて「ぼくちんの学ラン、ついに前が閉まらなくなってしまいましたー」なんて言いながらにへにへ笑ってるんだろう。ああ、想像がつきすぎる。
 向こうがそのつもりなら、こっちもその心意気に答えてやらなきゃなるまい。
 卒業式後の昇降口で泣くなんて役目は他の人に任せておいて、私たちなりの別れの儀式を執りおこなうのだ。“3Eのバカ殿様”と呼ばれた男と、そのハリセン係を自他共に認めてきた女の、コンビネーションの最後をどうやって飾ろうか。
 ──飾れるあては、あるのだろうか。

 およそ「学級委員長」というイメージからかけ離れた頭の色をした中屋水明《なかやみずあき》という男は、おまけに背丈までひょろ長いので、人混みのなかでもよく目立つ。人混みで目立つ、これは重要である。いつも何かと大勢の人間に取り囲まれてる性分だから、あんまり地味な容姿してくれてるといろいろ困ることが多いのだ。
 「委員長」っていうポストがこれほど似合わなくて、それでいてこれほど向いてる人間ってのも、そうそういないんじゃないかと私は思う。
 二年から三年に進級する時、クラスは持ち上がらなかったので、同じ教室に居合わせた人間の半分は面識のない人だった。
 しょっぱなのホームルーム、そんな状態のなかで話し合われた委員会の分担。いよいよ評議委員を決める時になって、確か男子のうちの誰かが「中屋君を推薦します」と言って、教室の一部が大受けしてたのだった。
 言われて立ち上がった中屋君とかいう男子が、まぁあの通りのなりだったものだから、この人と初対面だった私にも、受けてた理由は何となく分かったような気がしたものだった。
 私・由原木敦子《ゆはらぎあつこ》はと言えば、男子のほうよりずいぶん早いうちに女子の側の評議委員に決まってたから、この時軽い頭痛がしたことを付け加えておく。同時に、こんなやつと一緒では、これから一年間ほぼ私ひとりでこのクラスを切り盛りしなきゃならないだろうなと腹をくくったことも。
 ──その目測が大外れだったと気づいたのは、一学期が始まっていくらもしない頃のことだった。

 ようやく人混みから解放されたところらしい中屋君は、体力もボタンもしぼり取られてへろへろになっていた。
「……中屋君、ワイシャツのボタンもないんじゃないの」
 はだけた胸元は鎖骨が目立ちすぎて、はっきり言わせてもらえば貧相である。もてるのは結構だけど、後先を顧みないサービス精神は身を滅ぼすだけだっていうことをこの男は一向に学習する様子がない。
「おー敦子女史、いいところに。アナタのボタンを俺っちに下さい」
「冗談じゃありません、バカ殿様」
 あくまで顔はにこやかに、手のひらは容赦なく彼の背中をはたく。
「あうちっ。ちょっと女史、手加減なさすぎー。みーくんこんなに華奢でか弱いのに……」
「あーはいはい、そうですね華奢ですねか弱いですね。ついでに頭も」
 げげ、と呟いて大袈裟によろめく彼を、私はちょっとしみじみとしながら眺める。そういえば、このいちいちコミックスターじみた身振りが最初気に食わなくて気に食わなくて仕方なかったものだった。あの頃のまま、鈍感でいられたなら、私はきっとずっと楽だったに違いない。
 私の側では、彼に話す言葉は、情けないことにこれでほぼ打ち止めだ。
 あと残っているのは、絶対に見せてはいけない手札。悟らせてもいけない。まるでポーカーでもしているみたいだ。勝負を挑むにはちょっと無謀な相手だし、仮に勝てたとしてもこっちには何のプラスもないゲームだけれど。
 こんな時に限ってこの男、妙に静かである。まったく肝心な時に役に立たないとはこのことだ。仕方ないから禁断の手札から比較的無難なやつを見繕ってみる。
「──バンド、さ」
 口にした途端、浮かんできたいろいろな映像を振り払って私は続ける。
「……続けるんだってね。プロ目指すんだって聞いたけど」
「あー、女史も知ってたの?」
「有名だよ、結構」
「え、マジで? あんま大っぴらにすると恥ずかしいから計画は極秘で進めてたつもりだったんですけどもー」
 喉の奥のほうで引っ掛かっているような変な笑い方で、中屋君は言った。私は軽く睨んだ。
「──恥ずかしいなんて、爪の先ほども思ってないくせに」
 自分がどんな表情でステージに立っているのか、こいつは知らないのだろうか。
 学園祭が近づいた頃、帰りのショートホームルーム中に、あろうことか彼は自分の所属してる軽音サークルの宣伝を始めたのだ。「3Eの生徒諸君! 文化祭はわが軽音部のライブを聴きに来るのです。これ卒業必修単位なのです」とか何とか言って。それは職権濫用だろうと、私がひっぱたいてやったところ、「えっ、だって女史、職権ってそもそも濫用するためにあるものじゃないんですか?」なんていうけしからん答えが返ってきたものである。
 付き合い上やむを得ず見に行ってやった私は、ステージの上でものすごく幸せそうにベース弾いている中屋君の姿を見て、ほんの少しだけ胸がちくりとしたのを覚えている。そもそもこの時まで、彼が弾いている楽器が“ベース”というものなんだということすら分からなかった私には、音楽的な善し悪しなどまるで評価できない。それでも、このことだけは分かった。というより、分かってしまったのだった。
 ステージの上で、中屋君はちらりと後ろを振り返った。その視線の先には大きなドラムセットがあって、中から女の子が一人、顔を出していたっけ。何か、二人だけに通用する一瞬のやりとりを交わしたあと、曲のリズムはひときわ激しくなった。
 できれば。そう、できることなら分かりたくなどなかったのだけど。
 ──彼の心の中において、どうあがいても私は、“音楽”に勝る存在にはなれないのだろうということを。
 するとなると、胸の痛みの理由も同時に分かってしまい……そうして、今に至るというわけである。
 だから、この思いは封印すべき思い。感づかれることもあってはならない思い、なのである。とはいえ、ひょっとしたら彼は薄々察しているんじゃないかとも思う。無駄に鋭い男だから。
 恨み節にはしない。薄汚れた嫉妬もちっぽけな劣等感もすべて飛び越えて、中屋君の人生の味方のひとりでありたいと思った。それでいい。そう、決めたのである。
「恥ずかしいなんて言ったら、夢に対して失礼じゃないの」
 多少大人気なく口をとがらせてしまったのは、仕方ないことだと勘弁してもらいたい。
 中屋君は口の端だけで笑いながら、やたらとせわしなく何度もうなずいている。足下の小石をいじくり回している彼の顔を覗き見た瞬間、唐突に分かってしまった。
 ──ああそうか。彼は震えているんだ。たどり着けるあてのない未来に。
 とびきり臆病で神経質な心を抱えて、それでも歩かなければならないから、ありったけの見栄を稼働させてへらへら笑顔の鎧を着込むのだ。多分、誰もが。
 そして、私も。
 仕方がない。その見栄、最後まで付き合ってあげようじゃないか。
 私は中屋君の学ランの襟元にまだ残っているアイテムがひとつあることに気づいた。同じものが、私のブレザーにも健在である。アルファベットの「E」と書かれたクラス章を外して、私は彼に差し出した。
「一年間、お互い頑張りました。記念に交換しませんか?」
 できる限り軽やかな声で言った、つもりだった。それが成功したのかどうかはよく分からないけれど、中屋君はようやくいつも通りの能天気な笑顔になった。
「おおー。敦子女史に認められるなんて、中屋感激の嵐ですよ!」
「バカ殿なりにね」
「はい。バカ殿なりに精一杯頑張ってみました」
 ご丁寧に“アイーン”のポーズまでしてみせるこの男のことが、やっぱり私は最後まで苦手だ。何かにつけ私を立ててくれるけれど、本当に上手《うわて》なのはどちらなのか分からないほど私は馬鹿ではないつもりである。
 中屋君から譲り受けたクラス章を手の中でもてあそびながら、私の胸はほとんど痛いぐらいに澄み渡っていく。これが最後だと、どこからか聞こえない声がした。このクラス章も、馬鹿な写真ばかりを集めた卒業アルバムも、すべての形あるものは、過ぎ去ってしまった日々を追認するための装置でしかないのだ。
 それでもいい、と私は思った。今後折にふれ私が思い出す過去は、きっとお祭り騒ぎのようなあのアホらしい日々だろう。その日々の中で、私は中屋水明という最高のアホとともに在れた。それでいい。
「……仕方がないから、応援してやるか」
 空に向かって、私は呟いた。
「今もらったクラス章は仏壇にでも置いて、おじいちゃんに手を合わせるついでに中屋君のデビューも適当にお願いしておいてあげるから」
「仏壇ー? なんかちょっと微妙な感じ……」
「仕方ないじゃない、うちには神棚がないんだから!」
「オー、ノー! 何ということですか!」
 日本語覚えたての外国人を激しく誤解してるとしか思えないイントネーションで、彼は叫んだ。
「仏壇もいいけど、神棚もまたいいもんだよー。うちの庭、榊植わってんのね。神棚に供えるのってその榊なんだけど、家族んなかで一番背ェ高いのが俺だから、いつも榊係でさ。ちなみに“雲”貼りつけ係もやっぱり俺。うわ、ぼくちんつくづくこき使われてるなぁ……」
「雲?」
「あぁそうか。あのさ女史、知ってる? 神棚の上に乗っかってるあの建物があるじゃん。あれの上ってすぐ天井でしょ? 半紙に筆で“雲”って書いて、そこに貼るわけよ。そしたら二階で思いっきりドッタンバッタンやってても、これ全部雲の上の出来事ですからどうか気にしないで下さいねー、って」
 寡聞にしてその話は知らなかったので、思わず生徒手帳の余白にメモしてしまい、ホントに女史は勉強家ですねぇなんて中屋君に笑われた。習い性なのだから仕方がない。
「と、まぁ、そんなわけでですね。是非とも神棚は一家に一台というお話でした。マル」
「……それ、全然訳が分かんない……」
 しかし、みんなが抱き合って泣いていたり名残惜しげに写真を取り合ったりしている中、仏壇だの神棚だのの話をしてる私たちは、相当変なコンビだと我ながら思う。
 この変なノリが消えやらないうちに、もうそろそろ引き上げよう。私はカバンを肩にかけ直した。今なら理想的なタイミングだ。“バカ殿と女史”の別れに、何ともふさわしいではないか。
 回れ右をして、後ろ手に手を振りながら私は歩き出した。もとい、歩き出そうとした。
「由原木、ちょっとタンマ」
 ……この状況で苗字呼び捨てにするというのは、かなり性根が悪いと私は思う。
「なに?」
「──サンキュな。ホント、いろいろ」
 私のカバンを軽く叩いて、中屋君は“バカ殿”でも“ぼくちん”でも“みーくん”でもない口調で囁いた。それだけのことがどうして、これほどに苦しいのだろう。到底納得のいかない思いで、私は立ちすくんだ。とりあえず何か意味のある言葉を返したつもりだったけれど、実際に意味をなしていたかどうか、もはや私には分からない。
 ただ、ひとつの思いだけが明晰に頭の中に響き続ける。
 幕を下ろすのだ。取り乱さずに、慌てずに、それでいながら、躊躇いなく。速やかに悠然と立ち去るのだ。出番の済んだ映画の役者のように。あるいは、風になぶられるまま散ってゆくこの桜の花のように。私よ、どうかせめて、後ろ姿だけでも心意気あれ。

 ──校門を出て、あの角を曲がりきってしまうまでは。


(fin.)


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