『Noisy Life』side story
Naked voice,on the air.

(お題:はじめまして /「モノカキさんに30のお題」より)



 ふと思い立って、あたしは携帯をカバンから取り出した。バイブがブルった気配はない。着メロは今月のアタマにダウンロードしてきた「ラスト・クリスマス」のまま、でもこの雑踏の中じゃ、きっとろくに聞こえないに違いない。耳近づけなきゃ聞こえない着信音なんて、無いのと同じだと思うんだけど、なんとなく音を切れないでいる。たぶん、めんどくさいってのが一番の理由だと自分では思ってる……って、あは、他人事みたいだな。
 覗いた液晶は、夜景の壁紙をバックにいつも通りのディスプレイ。ふうん。あたしは携帯を折り畳んで、コートのポケットに突っ込んだ。アンタ、用なし。
 そう、携帯になんか、用はないんだから。

 バイトからあがった時には、通りはほとんどお祭りみたいになっていた。
 店の中で巻いてきたマフラーを口元まで引き上げて、ポケットに両手を突っ込んで、肩をぎゅっといからせる。そうすると、自分の吐いた息がマフラーの中にこもって、ちょっとだけあったかい。
 どう見たってひっつきすぎのカップルや、何だか怪しげな足どりの酔っ払いご一行様を追い越して、あたしは家路を急ぐ。
 あたしゃ、あんたたちに合わせてトロトロ歩いてなんかいらんないのよ。
 アパートまでの帰り道にあるコンビニで、年越しソバ代わりのカップ麺と紅白聴きながら呑むためのカクテルバーを買い込んで、レンタル屋にも寄ってめぼしいDVD借りてこなくちゃ。あ、そうだ、ミカン買うのも忘れちゃいけない。今の1DKの真ん中を占拠してる家具が、何を隠そう、わが愛しのおこた。やっぱりこたつにはミカンと相場が決まってる。
 早く帰ろう。そんで、早くあったまろう。

 ……小走りになって人混みをぬってくあたしは、多分間違いなく、今日この街の中で一番暇な部類の人間に違いないと思う。

***

「お姉さん、暇ならちょっと聴いてかない?」
 この人混みの中で、ひときわよく通る声が呼びかけてきた。
 あたしは思わず立ち止まって、声のしたほうに目をやった。周りの人たちも、同じようにその声の持ち主を探してるようだ。でも、最初に目が合ったのは多分あたし。声の人はあたしにちょっとだけ目配せをして、それから、人の流れを真横に横切ってこっちへ近づいてきた。
 ……お姉さんって、あたし……なのかな?
 そんなあたしの疑問、顔に出たのかもしれない。その人はもどかしそうにこくこくうなずいている。
「そ。そこの、一人で、やたらめったら忙しなく歩いてるお姉さん。あなた」
 歩きながら、あんたにそんなこと言われるのは心外だなぁってぐらいの忙しない口調でその人は言う。よく聞くとこの人の声、かなりハスキーだ。んでもって、よく見るとこの人、かなり若いっつうか子供みたいな顔立ちだ。この顔からこの声が出るのは、ちょっと意外な感じがする。
「一人なんだったら、一、二時間ぐらいは時間平気だよね? ライブ見てってよ、お願い!」
 ──あたし、唖然。
 いや? 確かにその通りだけどさ。一、二時間といわず、今夜一晩中予定らしい予定なんて全く入ってないけどもさ。面と向かって「暇なんでしょ?」って断言されちゃうと、それはそれでちょっと癪だなあ。
“強引矢のごとし”なんてインチキ諺を贈呈してやりたいぐらいだわ。
 ちょっと意地の悪い口調を作って、あたし、逆襲を試みる。
「この年の瀬に一人で暇してるサミシイ女は、ふところも大変サミシイんですけどぉ」
 うわ、言ってて虚しいぞ、我ながら、このセリフは。
「そのライブとやらって、タダで見せてくれるわけ?」
 ははは、実はこれ、セールス撃退のためによく使い回してる戦法なのよね。結構効くんだわ、これが。たいていの場合、埒があかないって思うらしくてね。
「た、タダぁ?」
 さすがの強引お嬢さんも、一声上げたっきり、そのまま口ごもってしまう。あらら……効くと思って口にはしたけど、ほんとにこれで降参? なんだ、案外、骨がないのね。
 ──暇だって、言ってやってるのにさ、こっちがせっかく。
 強引お嬢さんは、ひょいって感じで肩をすくめた。セミロングの髪を男の子みたいにかりかり掻きながら、ひとりで何か呟いてる。うわ、この人の髪、光合成できそうなぐらいの見事な緑色だわ。
「うーん、残念ながら、タダにはできないんだけどさ」
 残念ながらって言葉には到底そぐわない、不敵な笑顔を浮かべて、彼女は告げる。

「千円でどう? それでも安いって思えるような音、聴かせてあげるよ?」

 なんて……セリフ。
 なんていう、自信過剰。しかも真剣よ、この人。
 口ごもるのは今度はあたしの番だった。それでもう決定したつもりでいるのか、彼女はでっかい財布から紙切れを一枚取り出して、当然のことのようにあたしの目の前に差し出してくる。あたしが受け取らない可能性なんて、はなっから想定してないみたいだ。勝手だなあ、ほんとに。
 ……でも、さ。
 今のあたしも、相当バカに違いない。人のこととやかく言えないぐらいにむちゃくちゃで考え無しだと我ながら思う。
 あたしはショルダーバッグを肩から下ろした。財布には年末年始用の軍資金が、ほとんどクリスマス直前にATMから引き出したまんまの状態で入っている。その中から漱石先生の肖像画一枚、気がつけば彼女に手渡してた。
「わあ、マジで!? まいどあり!」
 そんなにストレートに喜ばれると、何だかかえって気恥ずかしくなってくる。
「……いいから、早く連れてってよ。どこでやるの?」
「こっち。でもね、あたしたちの出番はまだもうちょっと先なんだ。対バンやってて、あたしたちは十五番目。トリだよ」
 緑色の髪をなびかせて、彼女はさっさと人混みの中を突き抜けていく。慌ててあたしはその後を追った。
「あーよかった。ほんと、ありがとう。これであたしの分のチケットノルマ、全部捌けたよ。サンキュウね」
 振り向いて、肩越しに笑いかけてくる。なし崩し的に受け取ってしまったチケットをあたしは眺めた。“12月31日 年越しギグ in LIVE SPOT 山小屋 出演:Fool's Gold 他”。ああそうか、ライブやる人全員で、これを売りさばかなきゃいけないわけだ。さらにチケットを読んでいくと、値段が書いてあった。千五百円だって。じゃあ残りは自腹なのかな。
「ああもう、ほんとにどうなることかと思ったよ。ノルマ捌けなかったことはないのがあたしの自慢なのに、今回は結構やばかったの。この炎の売人トミーさまが、よりによって水明《みずあき》なんかに負けるなんて、不本意この上ないよね。よかった、助かったよー」
 ……訊いてもないことまで、マシンガンみたいによく喋る人だなぁ。
「それに書いてある、フールズゴールドってのがあたしらのバンド。あたしは本郷聡見《ほんごうさとみ》、あなたは?」
「門松、初美」
 これもやっぱりなし崩し的に、あたしは名乗っていた。別に名前教えなきゃいけない義理なんてないじゃん、と気付いたのは名乗った後のことだった。
 カドマツさんね、とホンゴウさんは繰り返した。覚えてもらったところで、今日以外呼ばれる可能性ってないに等しいんだけどね。
 本郷さんに連れられるまんまに地下に潜って、あたしはその「山小屋」とかいうライブハウスに入った。ワンドリンク制だからってんで、無難なところでウーロン茶を頼むと、勝手が分からないあたしを置いて本郷さんは楽屋っぽいところに引っ込んでしまった。どうしろって言うんだよ、まったく。
 ひとまず入口に立ってるのは邪魔らしいから、奥に進んでいく。すごい熱気だわ。人の体温って、圧力があるんだな。ライブは思ったより盛況らしくて、椅子はもう空いてない。壁際をキープして寄りかかっていると、ズシズシいう重低音が背中を伝って響いてくる。
 今やってるバンドははっきり言ってあんまりうまくないけど、ステージの真ん前でお客が大盛り上がりしてる。友達とか恋人とかなのかな。後ろのほうの客席では、明らかにカップルらしい組み合わせが何組かまったりといちゃついてる。何となく手持ちぶさたで、あたしは手に持った紙コップをからから振った。
 どう考えても、浮いてるよなぁ、あたし。

 あたしだって、別に、最初っからなんにも予定が入ってなかったわけじゃない。
 ここ、誤解されないように強調しておくけどね。クリスマスに始まって年末カウントダウン、そのまま初詣になだれ込む予定が、きっちりあたしのスケジュール帳にはあったのよ。
 でも、それも全部パー。
 そりゃあね、クリスマスイブの待ち合わせに遅刻したあたしは、ちょっといただけなかったかもしれないと思うよ。バイトのシフトが夕方で交替だから、それから待ち合わせ場所に直行して間に合って、そぞろ街うろついて買い物して、ちょっと小じゃれたパスタ屋さん入ってワインでメリークリスマス──なんていう、言葉にしちゃうともんのすごい痒い予定が続いてた、はず、だった。
 ところが、ところがよ。よりによって次のシフトの人が来やがらないもんだから、人手が足りなくて、交替時間が過ぎてるのにあがるにもあがれなくて、ようやく解放された時には何やかやで予定より三十分ぐらいオーバーしてた。一生懸命走りましたともさ、そりゃ。でもまあ、あたしはとりあえず待ち合わせ場所に遅れて着いたわけ。
 ヤツはぶんむくれてるし、こっちだって電話の一本も入れなかったのは悪かったなと思うよ。
 だからって、あの発言はあんまりだと思わない?
「デートの日にバイト入れるってこと自体が考えられない」って、言ったんだぜ、あの男は!
「イブだって言うのに誠意が感じられない。要するに、俺と会うのはバイトのついでってことだろ? お前はいつだって自分の都合が最優先なんだ」なんてほざくんだぜ。これをどう思うよ?
 好きで遅れたわけじゃない。
 三十分も待たせたのは、何も自分の楽しみのために道中道草してきたとかじゃない。
 だいたい、なんのためにあたしがせっせとバイトしてると思ってんのよ。デートで少しでもリッチに遊びたいからじゃない。少しでもおしゃれな服来て会いたいからじゃないか。……そりゃ、好きなCD買いたいとか、コンサート行きたいとか、サークルの飲み会行きたいとか、他にもいろいろあるにはあるけどさ。
 だから、あたし、怒鳴っちゃったのよ。
「ああそうだよ、文句ある? あたしはあたしの都合で生きてるよ。あたしがいつバイトしようと、きみにとやかく言われる筋合いないでしょ。あたしの人生はきみだけで構成されてるわけじゃないのよ。気持ち悪いこと押しつけないでくれる!?」
 やばい、言いすぎたかなって思った時にはもう遅かった。
 ヤツは無言で回れ右して駅のホームに入って行っちゃって、あたしはそれを追いかけるのも癪なもんで、ことさらに逆方向に歩き始めた。イルミネーションまみれの街並みに、どすどす靴を鳴らしながら切り込んでいく。
 振り返ってなんか、やらなかった。

 本郷さんとかいう強引娘の言うとおり、ええそりゃもうまったくその通り、それ以来あたしのクリスマスから年末年始の予定はがら空きだ。
 だからって、あたしは急いで新しい彼氏を見つけたりなんかしない。
 クリスマスだか大晦日だか何だか知らないけど、あたしの予定はあたしのものなんだから。誠意がないとか自分勝手とかイチャモンつけられるぐらいなら、ひとりでいた方がよっぽど清々するのよ。
 ──ああ、それでも、やっぱり。
 ポケットの中の携帯は鳴らない。開いてみれば、クリスマスイルミネーションの壁紙のまま。替える気にも、ならない。
 スピーカーがびりびり言うほどの爆音も、壁一枚向こうのことみたいだった。

***

 ジャンルもレベルもバラバラのライブを聴くともなく聴きながら、あたしの紙コップの中の飲み物はソフトドリンクからアルコールに、それもだんだん強いモノになっていた。
 今の中身は、ブラッディマリー。
 テンションもだいぶおかしくなってきてるって自覚があって、自覚がある間はまだ平気なんだろうとは思いながら、やっぱり両手両足でへっぽこドラマーみたいなリズムとってるあたしは、端から見たら相当変な女だろう。
 とは言っても、端で見てる人がいるとは、あんまり思えない状況だけどね。
 ステージ真下の一角は面白いぐらいのテンションでジャンピングなんかしている。目当てのバンドが出番終えた人は帰っていくか、メンバーの人と出入り口近くで話し込んだりしてて、席もちょっとだけ空いてきた。ウェイターとご対面のカウンター席で、居づらそうではあったけど、迷わずあたしは腰掛けた。休足時間、熱烈希望。
 ちびちびとブラッディマリーをすすりながら、あたしは思い出した時には一応ステージのほうを振り返ることにしていた。あんまりにも興味なさそうにしてるのも、ここのウェイターさんの目の前でどんなもんだろうと思ったりなんかして……あたしって、結構小心者かも。
 それにしても、遅い。
 今のところ、本郷さんがステージに上がったのを見てない。トリだって言ってたけど、トリっていつ出るんだろ。年越しギグだってことだから、ひょっとして夜中の十二時ぐらいにようやくご登場だったりするんだろうか。
 今、何時だろ。時計を見る。十一時十五分か。じゃあもうそろそろかな。そういえば、ここに入ったと同時に受付のお兄さんにいろいろチラシをもらっていたんだった。大雑把に目を通して、そのままカバンの中に突っ込んでおいたのを、がさがさ取り出してみる。タイムテーブルなんか、入ってたっけ?
 あの、とカウンター越しに声がする。顔を上げると、ウェイター君が愛想よく笑いかけてきた。ヤンキー風だけどどことなくなり切れてないような感じの子だ。
「お客さん、おひとりですか?」
 ……見りゃ、分かるでしょうが、そんなこと。
 答えずにいると、構わず彼は言葉を続ける。
「結構飲んでますよね、さっきから。帰り一人で大丈夫なのか、ちょっと心配になっちゃって」
「大丈夫です。自分の限界ぐらい知ってます」
 言ってはみるけど、微妙に呂律が怪しくなってて、我ながら説得力がないなぁと思う。あはは、と笑ったっきり、ウェイター君はそれ以上追求しないでくれた。
「どれか、目当てのバンドなんかあるんですか、やっぱり?」
 目当てのバンド。
 あると言えばあるし、ないと言えばないんだよな……。あたしはチラシと一緒にしてあった、チケットの半券を取り出して何となく眺めた。お兄さんが首を伸ばして覗き込んでくる。隠す必要もないので、彼に差し出してやった。
「ああ、“Fool's Gold”ね。いいっすよね、俺もあのバンド、好きですよ」
 コメントする声は、単なるお世辞とはちょっと思えないような響きだった。マヌケかなぁとは思ったけど、あたしは彼に訊いてみる。
「いいの? このバンド」
「え、いいと思うから聴きに来たんじゃないんですか?」
 お兄さん言うには、バンドのメンバーから直接買ったチケットには、そのバンドの名前だけが書いてあるんだそうだ。だから、あたしがフールズゴールドの名前入りのチケットを持ってる以上、あたしはフールズゴールドの客ってことになるんだろう。でも。
「だって、ほんとに、分かんないんだもん。聴いたこともないのよ」
 マジっすか、とお兄さんは眉毛を上げて、でもそんな人間がこのチケットを持ってここに来たいきさつなんてのには、大して興味ないようだった。自分のバンドを褒める時でもこんな嬉々とはしないだろうってぐらいの口振りで語り出す。だったら、お客さん、運がいいですよ。なんにも先入観ない、まっさらな状態であのステージ見れるんだから。あたしはふうん、と頷く。すごい惚れ込みようだなぁ。
「初めて触れた時のカンガイ、っていうのかなぁ」
 初めて触れた時の?
「そういうの、ぐわーって蘇ってくるんですよね。あ、俺も一応音楽やってるんですよ。って言うか、ここでバイトやってる連中、多分全員そうでしょうけどね。うん……初めてギター手に入れて、アンプと繋いで、弦引っ掻いてみたら音が出たっていう……まあ、当たり前のことなんだけどでもそれがやたら嬉しくて仕方ないっていう、あの気分。フールの音聴くと、そんな気分が蘇ってくるんすよ」
 それって……何だか……。
 返す言葉も見つからなくてあたしがただお兄さんの顔を見てると、彼、あたふた両手を振って、
「わ、すんません、何かこんないきなり訳の分かんないこと語っちゃって。忘れてくださいよ、たわごとッスから」
 薄暗いからよく分かんないけど、この人の顔、ひょっとして赤いんじゃない? 何か……可愛いなぁ。
「……フールの連中には、言わないで下さいよ?」
「へ?」
「俺がこんなこと言ってたって」
 それはいいけど……ってか、あたしそもそもフールズゴールドの人たちと仲いいわけでもないから言うにも言えないけど。
「やつらに知れたら、悔しいじゃないすか」

 ちょっと口とがらせてそう言うお兄さんの顔が、何だかやけに眩しかった。まるっきりの他人にここまで言わせちゃう、フールズゴールドのサウンドってやつ、ひょっとしたら期待しちゃってもいいのかななんて思ってみる。
 ううん、実は最初っから、してたんだ、期待。
 だって、賭けてもいいって思っちゃったんだ。だから夏目サンの顔写真、惜しげもなく出しちゃったんだ。
(千円でどう? それでも安いって思えるような音、聴かせてあげるよ?)
 こんな自信過剰のセリフを、往来で見ず知らずの人間に照れも構えもせずに吐けちゃう人の出す音が、果たして実際どんなものなのか、興味湧かないなんて嘘じゃない。

「あ、出てきた。始まりますよ、フールのライブ」
 カウンター越しにお兄さんが言うので、あたしはステージを見た。さっき道端でいきなりあたしにチケット売りつけてくれたホンゴウさんは、肩からひょいっとギターぶら下げて、ステージの右の方にいた。緑色の髪だから、一目瞭然。客席からこうやって見ると、本郷さんの背はちょっと高く感じる。さっきあたしと並んでた時には、あたしより何センチか低いような気がしたのに。
 あたしのこと、気付いてるかな……気付いてないよな。いや、そもそもこんな時間まであたしがここに残ってるってこと自体、案外、想像してないかも知れない。
 手を振るなんてことも何だかマヌケなので、あたしは黙ってステージを眺めていることにした。スポットライトがついた。音楽が、始まる。

***

 ──あいつにコクった日のことを、何故かあたしは思い返していた。
 あの時も確か結構寒かったけど、これから言わなきゃいけないセリフの内容を思って、ひとりで身体が火照ってたっけ。今言おう、今度こそ言おうってむやみやたらに深呼吸繰り返して、そのたびにタイミング逃して、道端歩いてた猫が目に入って、あの猫が鳴いたらきっと言おうって心に決めて。
 三日三晩考えて、その果てにたどり着いたたったひとことの言葉を、あいつがあっさり頷いてくれた時、あたし全身の力が抜けたんだ。嬉しいもほっとしたも感激したも全部霧の中のことのようで、ただ、ああ、とだけ思ったの。
 それから何週間か、メールとか電話で話すだけの日が続いて、初めてデートにこぎ着けたのはマヌケなことに何と、コクってからふた月ぐらいも後のことだった。
 ヤツの好みそうな映画を念入りにピックアップして、いかにも「別にきみとじゃなきゃ行きたくないって訳でもないんだけど」って素振りで、でもOKの返事が来た時にはほんとに嬉しかった。
 ──どうしてこんなこと思い返してるんだろう。そんな気分、もう何年も忘れてたのにな。

 よっぽどファンが多いのか、それともよっぽどサクラが多いのか、ステージの周りはあり得ないような盛り上がり方をしてる。ううん、断言してもいい。これがみんなサクラだったとしたら、ここの常連、相当見る目ないわ。
 あたしはと言えば、影が壁に縫いつけられでもしたかのように動けない。
 だって、この、声!
 この子……ボーカルとってる子、多分あたしよりいくつか下じゃないだろうか、この子の出す声って言ったら!
 あたし、恥じ入ってしまった。音楽なんていつも聞こえてくるものをそのまんま聞き流してた。耳あたりのいい歌で、それだから売れる歌ばっかり、友達との話題とかカラオケのために何となくインプットしてたのよ。あたしの人生、音楽なきゃ始まらないわけじゃないから、別にそれでも全然いいんだけど。
 それじゃダメなひともいるんだ。
 それじゃダメなひとたちの音楽なんだ、これは。

   気流に乗って 海流に乗って
   地を伝って この声よあまねく届け

 耳に入ってくる歌詞は、ちょっと「え?」って思うぐらい大上段っていうか現実離れした感じがして、でもこのボーカル君の声は響いた瞬間に、もうこの世にはこの音しか存在しないみたいにふわりとここに、在った。彼の声のためにこの場の音という音が全部どいて隙間をあけてやってるみたいだった。
 もう、全身、耳。
 ボーカル君の声が響き終わるところをすくい上げるみたいにして、ベースの人が弦を引っ掻いた。それからすぐに、ノイズ一歩手前って感じのキンキンした音がかぶさってくる。本郷さんよね、これ。彼女はいたずら坊主みたいに笑ってる。でもそれ以上に彼女の指が笑ってる。はしゃいでるって言ったほうがいいぐらいだ。
 ボーカル君が息を吸った。その呼吸の音に、ついぞくっとした。やだ、この子の声、何だかやけに色っぽいじゃないの。

   今はどんなに小さな呟きでも
   いつかきっと この声よ四天に響け

 パズルだわ。ジグソーパズル。
 箱いっぱいに詰まってるピースをひとつひとつ繋げていって、最後に一カ所だけ残った隙間に、最後の一ピースをはめ込むあのカイカン。ただの厚紙のきれはしの寄せ集めでしかなかったモノが、一枚のおっきな絵になる瞬間が、子供の頃のあたしのお気に入りだった。難しければ難しいほど燃えるのよね、あれ。
 今はもうすっかりやらなくなっちゃったけど。
 今になってみれば、絵を完成させたかったわけじゃないんだな、あれ。完成するまでの手間と時間と、それからいらつきまでひっくるめて、あの試行錯誤するひとときが楽しかったんだ。
 なかなか出来上がらないから、やめられない。

   生きとし生けるものすべてに捧げる
   この声を この歌を この言の葉を……

(伝わらないから、離れられない)
 ──そうなんだ。

  “...Naked voice,on the air.”

***

 ボーカル君がぺこっと頭を下げたあとも、頭の中に残っていつまでも離れない音楽に、あたしはひたすら呆然としていた。例のウェイター君が目配せしてきて、小声で訊いてくる。
「どうでした?」
 どうもこうも、あたしには何てコメントしたらいいか分からなかった。そんなあたしの様子を見て、ウェイター君は満足そうに笑った。何だか巧いことしてやられたような気分で、あたしは紙コップに口を付けた。もうすっかりぬるくなったカルーアミルク。甘い。
 ふと、前のほうが騒がしくなった。何言ってるんだか全然分かんないぐらい重なり合ういくつもの声。その中から、一段と大きな声が上がった。ステージの上で、マイクをいつの間にかぶんどって、ベースしょったお兄さんがやたらめったら軽妙なアナウンスを繰り広げてる。
「えー、山小屋での年越しギグももう大詰めです。サミシイです。残念です。しかーし! 物事が終わるということはまた新しい何かが始まるということでもあるのです。だからご安心下さい、ナカヤミズアキは永遠に不滅です!」
 ……含蓄あるように一瞬でも感じた自分がちょっと恥ずかしいよ……。
「不肖中屋、お開きの音頭をとらせていただきます。今偶然にも飲み物を飲んでらっしゃるという方、紙コップをお手にどうぞ。ありがとう本年、はじめまして新しい年! 変わる干支と変わらない音楽マニア魂に──」
 ここで横合いから本郷さんがさらにマイクをもぎ取ったもんだから、ステージの上、すったもんだ。もみくちゃになりながらやけくそみたいに怒鳴る、本郷さんのハスキーボイスが耳をつんざいた。

「乾杯!!」

 周りじゅうで交わされてるビバ新年コールの中で、あたしはぼけっと座り込んでいた。
 光らない、鳴らない、震えないあたしのポケットの中。取り出して携帯を広げる。時季外れのクリスマスイルミネーションと圏外のサイン。無数の電波が飛び交う夜空の中に入れない。切り離されたあたしの携帯。
 鳴らない電話って、孤独だ。
(淋しい)
 全然原型とどめてない、やたらロックな『お正月』を背中に聞きながら、あたしは人混みをかき分けて出口へ走った。
(淋しい。淋しい。さみしい)
 一度思っちゃうと、もう止まらなかった。
 すすけた階段駆け登って、ぱっくり開けた地上をあたしは見上げた。通りは入る前よりはさすがに静かになってて、残ってるのはコンビニやら飲み屋やらホテルやらの灯りぐらいなもので、その中を時々カップルや酔っ払いが歩いてる。寒い。
 ──ひとりでなんか、帰りたくない。
 電話帳から名前消さなかったのはどうして? 着信拒否設定もしなかったのはどうして? いつもはカバンの奥深くに埋まってて、鳴っても気付かないことも多かった携帯を、最近気がついたら握りしめてるのは?
(淋しいのは、誰のせい?)
 墨で塗りたくったみたいな空に、響かせてみようか、あたしのココロ。
 コクった時のあの心臓の音を。初めてデートの誘いかけた時、ヤツが電話に出るまでの間何回か聞こえてたコールの音を。ヤツひとりにあげる初めてのチョコを味見した時のあの味も。
 ……大丈夫、忘れてない。
 あいつがもし忘れてるんだったら、何だかなぁだけど。そんなら思い出させてやるんだ。
 悔しいけど、今回はこっちから折れてやろうか。新年に免じて。そんでもって、初詣の計画なんかも立ててみようか。新しい年の始まりに便乗して、ね?
 気がついたら除夜の鐘が遠くのお寺から響いている。今何回目だろ。人の百八のボンノーを浄めるための音なんだっていうけど、それって多いのか少ないのかよく分かんない。あたしのボンノーがそれより多いのか少ないのかも分かんない。
 それでも、こうやって必ず新年はやってくる。
 そうなんだ。どんな年でも必ず明けるんだ。あたしたちはいつでも「新しい年」を過ごしてる。その中で生きてるあたしたちも、いつでも新しい。だから忘れない。
 ハジメマシテを、忘れない。

“Naked voice,on the air!”

 あたしは通話ボタンを押した。


(fin.)


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