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輝ける翼
〜「虹待ちの空」番外編(フレティ&アル)〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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***

 アルは〈地泳〉能力の使い手である。
 彼が望みさえすれば、土はいつでも快く彼を迎え入れる。彼の身体を取り巻く土は、浴槽いっぱいに張られた湯のように穏やかで優しい。ちょうど水面に飛び込む要領で地面に飛び込むと、アルの身体は大地に潜ってゆく。潜っている間は息を止めていなければならないのも、気をつけないと溺れてしまいかねないのも、まったくと言ってよいほど水中を泳ぐ場合と同じだ。
 だから、つい失念しがちなのだった。本人ですらも。
 ──これはれっきとした魔法であり、泳ぎ続けていれば魔力を消耗するのだということを。

 もともと、階段を登ったり、書物庫でめぼしい本を取り出して読書机に運んできたりといった、ちょっとした作業でフレティの息は荒くなる。そんな彼にとって、この雪合戦はほとんど自傷行為に等しかった。等しかったはずなのだが、驚くことに、彼の身体は全くつらさを訴えなかったのだ。今、この瞬間までは。
 一度我に返ってしまうと、疲労は反動のようにどっと押し寄せてきた。
 フレティは立ち止まって自分の膝にすがりついた。心臓が胸の檻の中で猛る獣のように暴れている。身体は狂おしいほどに新鮮な空気を欲していたが、呼吸がそれに追いつかない。矢継ぎ早に浅い息を継ぐと、そのたびに喉が木枯らしの音を立てる。
 肩を大きく上下させながらも、フレティは周囲にくまなく視線をやる。彼を我に返らせた原因──アルの姿を探して。
 アルが、上がってこないのだ。
 かじかむだけかじかんだ指先、棒のように動かない脚、鈍麻する身体の感覚に反して、少年の頭はめまぐるしく働いていた。最後にアルが地面に潜ったのはどれぐらい前だった? 普通の人間はそれほどの時間息を止めていられるものなのか? 自分を物差しにしてはいけないことは分かっている。アルが私を連れて泳いでくれる時には、きっと私の息の長さに合わせているのだろう。そうならば、本来のアルの息はあれよりは長いに違いない。だが、それにしても……。
 ひとつの可能性に思い至って、フレティは身を固くした。いや、本当は、疑問と同時にその可能性は浮かんでいたのかもしれなかった。ただ意識の外へ追いやっていただけで。
 アルが上がってこない。地中に潜ったまま、一向に。
「もう──戻ろう?」
 紫色の唇から、震えた声を押し出す。
「……くやしいが、私の負けみたいだ。寒くなってきたし、もうそろそろ帰らないか?」
 返事はなかった。その代わり、かすかな音がした。
 フレティは訝るように眉を寄せ、そちらを見やった──否、訝るふりをしたに過ぎなかった。もぐらか何かが地下で蠢いた跡に似た突起を一カ所にだけ残し、それきり土は沈黙した。
 ごくりと唾を飲む音が、空の果てまで響くような錯覚にとらわれる。白い野原は今や、耳が痛いほどに静かだ。脱力して地面にへたり込めば、腰から伝わる雪の冷たさがあっという間に身体中を駆けめぐった。
「返事をしろ、アル」フレティは這い寄った。
 盛り上がり、細かく砕けた土を、取り憑かれたように引っ掻き始める。指先が切れるほどの冷たさを訴えたが、じきに麻痺した。掘れども掘れども、アルの姿は現れない。せめて爪の先でもいいと願ったフレティの手に、ふと、土とは異質なものが触れた。懸命に掘り返してみると、それは大きな石ころだった……。
「アル」
 目の前がぼやけた。フレティは歯を食いしばって熱い塊を飲み込んだ。
 飲み込んだ塊は、喉を駆け降りながら二つの熱球となって全身を貫き、程なくして背中に到達した。肩胛骨のあたりにぴたりと収まったそれは、みるみる膨張し、弾けた。脳髄を焼き切るほどに鋭敏な知覚と、自分の身体がここにあるという感覚の果てしない希薄さに、彼は身を委ねた。
 脚のきしみも指先の冷たさも呼吸の苦しさもすべて消し飛んでいた。
 光の鱗粉をはらはらと散らして、見えない翼がひとたび、羽ばたいた。フレティは大空高く浮かび上がった。彼の眼は今、通常の視力では捕らえきれるはずのない、ある一地点のみを捕らえていた。
 壮麗なる宮殿の離れの一棟、アルとファーハとともに住まう、心の我が家を。

***

 異変に気付いた時には、既に手遅れだった。
 水を蹴るように軽やかであるはずの足の感触が、得も言われぬ違和感に急速に塗り込められてゆく。見開き続けたままの目に土の粒が容赦なく侵入し、眉間が割れるほどの痛みを訴えた。思わず叫ぼうと開きかけた口の中にも土は入り込む。反射的に吐き出すと、それで息を使い切ってしまったらしい。そして、今の彼には、うまく空気を摂取することすらままならない……。
(何だ何だ何だ何だ何だこれは!!)
 一刻も早く浮かび上がろうと懸命に伸ばした腕は、固い土を申し訳程度に引っ掻いてそのまま動けなくなった。もがけばもがくほどに身体は締めつけられてゆく。土は本来あるべき姿に戻ろうとしているに過ぎないのだろう。ちょうど彼の身体が占領している部分だけが、土の意志に反していた。彼は土の中で、ただの異分子だった。
 ──この、俺が。
 魚のように悠々と地中を舞い遊べるはずの俺が。
 地潜りを行う時に、いつも身体の奥に淡く脈打つ波動があるはずだが、今は消え失せている。使い果たしてしまったのだろう。あまりの失態に、ほとんど気を失いそうになる。いや、事実、彼は気を失いつつあった。呼吸を封じられ、臓腑を締め上げられた者の行く末はたったひとつ──永遠の失神。
 闇だ。底無しの漆黒の闇が迫り来る。
 死神の鎌を見たと思った瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、独り置いてゆくにはあまりにも小さくか細い、とある少年の姿だった。彼は震えた。漆黒の闇のさらに先にあるだろう、未知の領域にではない。自分という存在がこの世から消えてしまうことにでもない。ただ、かの少年と切り離されてしまうことだけが怖かった。
 ……おのれの半身とも思う、かけがえのない少年と。
 他愛のない話もできない。笑顔を二度と見られない。あの目に自分はもう二度と映らない。何があっても守れない。年齢に似合わぬ物憂げな笑みを見るたびに、彼は拳が震えるほどに腹立たしく、また、頭が沸騰しそうなほどにいとおしかった。
 フレティ。

 ──そう、すべて分かっていた。
 アルが、私に〈天使の綿毛〉を見せたかったこと。幼い頃にアルがしたような雪遊びを、私にもさせたかったのだろうこと。ひとえに、私を喜ばせるために、アルが地中を泳ぐ魔法を乱発したのだということも。
 それなのに、自分は、地中に埋まったまま出てこられないアルを引っ張り上げることすらできないのだ。
(……私は、一体何なのだろう)
 足手まといなだけの子供だろうか。自分ひとりでは何もできない、役に立たない存在なのだろうか。疑問のかたちをした結論に身を委ねるのは心がうずいた。文句のつけようがないほど正当な生まれでありながら、自分が将来の大公の地位を疑問視されていることも、薄々知っている。大公位にさほど執着はない。ただ、自分に力がないという事実だけが、痩せこけた胸の奥深くでわだかまっていたのだった──。

 ……漆黒の闇が溶けてゆく。
 どこからか、いつの間にか、白い淡いはかない光が染み出し、ゆっくりと闇を溶かしてゆく。のろのろと這い回るように鈍い自分の思考を、少年はもどかしく思った。光はひどく曖昧に彼を照らしている。光源は遥か頭上とも、中空目線の先ともつかず、それが妙に心を掻きむしる。
 白はしだいに力を増し、いつしか闇に取って代わっていた。不思議なほどに眩しさは感じない。ただ、光に乗って迫り来ると見える、何か漠然とした、それでいてとても強い想いが目を灼いた。
 自分は泣いているのだろうか。何せあらゆる感覚が閉ざされている。もしかしたら濡れているのかもしれない頬も、にじんでいるのかもしれない視界も。何ひとつ、この白い闇に取り込まれて実感がない。正直なところ、どちらでも構わなかった。
 ふとうつむいた足下には、影がなかった。光源の定まらない明かりは、もの言わぬ分身をすら彼から取り上げてしまったのだろうか。
 ──俺、もう駄目なのかな。
『……行くな、アル』
 びくりと背筋が伸びた。自分の胸ほどの高さに視線を走らせたのは、ひとえに日頃の習わしであるだろう。ふたり立って並んでいる時にはおおよそこの首の角度で表情を確認できる、その人物の姿をアルは探した。相変わらず視界は白く塗り込められており、瞳に何の像をも結ぶことはない。
『戻ってきてくれ、私を置いていくな……』
 アルは狂ったように虚空を掻きむしった。抱き留めようと伸ばすたびにすり抜ける腕が苛立たしい。声だけは明瞭に響くのが、いっそう我慢ならなかった。意志の強さを窺わせる高く澄んだ、だが時折風に消えそうにはかなく揺れる声。長い前髪に隠れがちな瞳。まれに覗かせる心許なげな表情、それよりもさらにまれな、屈託のないわらいがお。彼のすべてを、雨を待つ砂漠の砂のごとく渇望していた。
 声だけでは、到底足りない。
(どこにも行かないから。お前を独りにはしないから)
 ──ああ、それなのに、お前の何ひとつにも触れることができない、手。
 途方に暮れてうずくまるアルの肌が粟立ったのと、それは同時だった。
 眼前の白が、ふとうごめいた。
 ある箇所は張り出し、またある箇所は引っ込み──平らかな虚無がゆっくりと陰影を持ち始める。見えざる名工ののみが大理石の壁面を刻んでゆくのを早写しで眺めるのに似ていたかもしれない。その業がしだいに模してゆく形に、アルの全身は打ち震えた。
 肩で切り揃えた柔らかく波打つ髪に、自分の胸ほどの背丈の、吹雪に飛ばされそうに細い、かれこそは……
(……天、使)
 俺何を血迷ってるんだ、とアルは思った。見慣れた背格好、見慣れた顔のこの少年をとっさに天使と思うなど、自分の母親を全く笑えない。だがしかし、自らの意志に反して身体は勝手に動いた。ひざまずいたのだ。
「お願いです、俺をまだ連れて行かないでください」
 唇が紡ぎ出すのは祈りの言葉。
「俺にはまだ──やり残してることがある。たくさん」
 天使のような少年、もしくは少年を模した天使は、背中の翼をわさりと広げた。白いものが次々と舞い飛ぶ。まるで大気の一部のように軽く、手の中で溶けそうに柔らかい、本物の〈天使の綿毛〉だ。それが、既に、座り込んだアルの腰のあたりまでを覆い隠している。
 天使は、うつむいて両手で顔を覆っている。その指の隙間から、はらはらと綿毛が降り注いでいるのだった。
 アルは綿毛のひとひらを、そっとすくい上げた。掌の上で、それは温かい滴のように溶け、染み込んだ。頭の芯が痺れんばかりの歓喜を覚えた。フレティ。俺の半身。
『私はわがままだ。アルの足手まといにしかなれないことを知っていながら、お前を手放すことなんて考えられない』
 足手まといだなどと思ったことは一度もない。アルは叫んだ、つもりだった。実際には声ともつかないかすれた吐息が喉からわずかに漏れただけに過ぎなかったのだが。
『お前を守れたら……いいのにな』
 抱きつぶせそうに華奢な肩が、細かく震えている。『お前が土の中で苦しんでいるのに、私には何もできない……どうして……どうして!』
 胸を楔で打ちつけられたような衝撃に、アルは言葉を失っていた。考えてもみなかったのだ──フレティもまた、自分と同じように相手を守りたいと感じていたなどと。守る、という言葉は、フレティが口にするには何だかひどく痛々しく、凄絶なもののように思える。
 俺がお前を守ると決めた。それ以外の関係など、頭の隅にもなかった。
 ……だが。
『アルには私など必要ないのじゃなかろうか』
「ばか言うな!!」
 腹の底からほとばしる、想い。
「お前……お前、それ、本気で言ってるのか。今まで俺の何を見てたんだ。お前が弱っちいからお前を守りたいんじゃない。お前が大公のせがれだから守りたいんじゃない。お前ほどじゃなかったとしても、身体が弱くて身分の高いやつなんて、世の中いくらだっているんだよ!」
 守ってやらなきゃ心配だなどというのは、口実だった。守らずには、いても立ってもいられないのだ。何故ならば。
「お前を──お前だから、守りたいんだよ! 何だってしてやりたくなるんだよ!」
 ……お前なしでは何もできないというのは、果たしてどちらの話なのか。
 もしもこれが本物の天使だったなら、とんでもない不敬になるなぁとぼんやり思いながら、アルは翼の少年を抱きしめた。
 天使は拒まなかった。無数の綿毛が降りしきり、積もりゆき、ついにはふたりを埋め尽くすまでになっても、彼らはなお寄り添っていた。

***

 意識を取り戻したアルを見て、ファーハは泣き崩れた。
 アルは、自分が土の中から救出され、ここへ運び込まれてくるまでの経緯をこれでもかというほどに聞かされた。興奮のあまり全く要領を得ない母親の説明を、それでも何とか自分なりに翻訳して理解したところによると、自分はどうやら丸二日の間目を覚まさなかったらしい。二日で目が覚めたのが逆に奇跡的な状態だったのだとも。
 ──あの時。
 ファーハは、死人のように青ざめたフレティに仰天し、続いて、彼が一人きりであることを訝ったという。
 玄関先に倒れ伏して「アルが……地面に……」とだけ告げたフレティは、顔をこわばらせながら頷く乳母の様子を確認すると、そのまま意識を手放した。
 アルが地中に埋もれている。フレティがそれを伝えに飛んできて力尽きた……。
 何となく嫌な予感は覚えながらも、衝動に駆られてアルは尋ねた。すなわち──フレティはどうしてる、と。
 ファーハは力無く頭を振った。最悪の事態には至っていないものの、この屋敷の玄関先に倒れ込んできてから、熱がひどく上がり、ずっと昏睡状態なのだという。
 母の説明を途中から背中に聞き流して、アルは駆け出した。

 大きな窓に薄い紗を垂らしたその部屋は、物憂げに薄暗かった。
 思い切り渋るフレティの従医をどうにか説得して人払いを済ませると、アルは細く紗を開けた。二日前が嘘のような青空だ。当然、地面は既に乾いている。
「……雪、溶けちまったな」
 小声で呼びかけるが、返事はない。軽く息をつき、アルは紗を元に戻した。
「あんなことになっちまって……悪かったな。俺がついてたのに」
 少年の胸のあたりの掛布が、かすかに上下しているのが見て取れる。ひとまず、命に別状はないようだ。だが、この部屋が薄暗いことを考慮に入れても、フレティの顔色はかなりすぐれない。アルは手を伸ばし、彼の頬に軽く触れた。子供にしては、不憫なほどこけた頬だ。
「お前が助けてくれたんだってな」
 あの一件──白い闇の中で天使の綿毛に埋もれたひととき──が、夢であったのか否か、今となってはよく分からない。恐ろしく現実味に欠ける出来事ではあったが、夢にしてはやけに鮮烈な印象をアルの心に残している。
 仮に夢であったのだとすれば、あれは正夢だったに違いない。
「ばかやろう、早く目ぇ覚ましやがれ。これじゃあんまり不公平じゃないか」アルはことさらに軽い口調で毒づいた。
「お前が戻ってこいって言うから、俺、ちゃんと戻ってきてやったんだぞ。お前もさっさと戻ってこいよ。人の話、聞いてなかったのか?」
 視界がにじんだ。
「裏切りやがったら、承知しないからな……」
 呟きに重なるように、うわごととも吐息ともつかない声が、フレティの口から漏れた。何を言おうとしたのか聞き取れないうちに、フレティはまた黙ってしまった。ただ、血の気の薄い唇だけが、何かを言いかけてやめるようにかすかに震えた。
 その唇を、アルは自分のそれで塞いだ。
 何の根拠もないことではあったが、何故か、アルはフレティが謝ろうとしていたのではないかと思ったのだ。それならば、お前が言うべき言葉じゃない。お前は余計な気を回さなくていい。
(世界で一番、大事なんだよ、フレティ)
 柔らかい掛布の中の身体が、もぞりと動いた。
 慌ててアルは唇を離した。あたかも普通に寝顔を覗き込んでいただけであるかのように、体勢を立て直したが、その他のことは全く頭から抜け落ちていた。だから、何度か瞼をうごめかせたのち、ゆっくりと目を覚ましたフレティは、開口一番に言ったのだった。
「顔が……ぬれてる、アル」
 アルは滑稽なほどに明らかに赤面した。服の袖で乱暴に涙を拭おうとするアルを、しかしフレティは押しとどめた。代わりに、自分の腕を伸ばした。頼りなくよろめきながら虚空を泳ぎ、じきにアルの頬に触れた。
 温かな滴に濡れた指先を、フレティは少しの間眺めていたが、やがて両手で握り込んで自分の胸に押し当てた。
「ありがとう。──うれしいよ」
 呟いて、フレティが浮かべた微笑みは、アルですら一度も見たことのないほど、ひとかけらの含みもない、穏やかなものだった。


(...fin)


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