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輝ける翼
〜「虹待ちの空」番外編(フレティ&アル)〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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 天使の綿毛が降ってきそうだねぇ、今日は。

 ──起き抜けのアルの耳に、歌うような弾むような声が届いた。アルは背筋に何やらとてもかゆいものを感じて身震いした。
 母親のファーハである。自分を生んで育て、それがまだ育ちきらないうちにさらに国一番の貴人の御子を預かって育てている女性とは到底思えないほど、彼女は時折乙女のような甘い言葉を吐く。それが、生意気盛りの少年の敏感すぎる羞恥心には耐えられないというわけだった。
 朝から軽い疲労感を覚え、アルがはあっと息をつくと、冷え込んだ部屋の中にひとかたまりの淡い煙が漂った。
 なるほど、今朝は特別に寒い。母が自分を起こすために開け放した扉から、煮込んだブイヨンの香りが漂ってきた。温かいスープで、身体をほぐすのだ。母親の作る朝の一杯のスープほど美味しい料理はこの世に存在しないと思えるほどには、少年は純真である。
「ほら、アル、早く寝間着を着替えなさい。フレイザーンさまはもうとっくに食卓でお待ちだよ」
 アルはひょいと肩をすくめた。時間に律儀な公子の名前を引き合いに出して、母はよく実の息子に説教をする。お前より四つもお年が下でいらっしゃるのに、フレイザーンさまは何てしっかりなさってるんだろうねぇ、お前ご迷惑だけはかけないようにしなさい──などなど。
(そんなこと言われたって、なぁ)
 アルにしてみれば、相手が誰の腹から生まれた子供であろうが、要するに弟分なのだった。同じ屋根の下に暮らす、年下の少年フレティ。これを弟と呼ばずして他に何と呼ぶのか。
「へっ、こんな朝っぱらにもう身繕いができてるなんて、まるでじいさんじゃないか。あいつは単なる若年寄なんだよ、若年寄」
「少しは反省するかと思えば、何てこと言うんだい、あんたって子は!」
 母の声が跳ね上がる。減らず口を叩くだけ叩けば、少年としては充分なのだった。ことさらにかしこまって見せてから、アルは急いで着替えをすませた。羽目を外せるのはどこまでか、生まれてこのかたの付き合いで熟知しているつもりである。
「母さん、今日は卵のスープだろ。んでもってタマネギも入ってる。当たりだよな、な?」
 母は苦笑混じりの溜息をついた。
「その察しの良さが、食べ物にしか働かないのがあたしには勿体なくてたまらなく思うよ……」

***

 年長の少年の知らないいろいろなことを、年少の少年は知っている。
 同じ箱の中で、同じ女性に育てられたにもかかわらず、フレティはいつの間にか、アルよりもはるかに博識な少年に成長していた。
 この世界の歴史と形状、空の上に住まう神々の伝説、母親たちが乳飲み子に語り聞かせる寝物語、楽師の弦のひとかきとともに紡ぎ出されてきた数々の謳。あいにく息子には受け継がれなかった、ファーハの読書という趣味だが、この貴人の御子にはすんなり浸透したらしい。「どうせ、めくってるだけで意味も分かってないんだろ」と揶揄するアルを後目に、フレティは、一個人の本棚としては決して貧弱ではないこの家の蔵書をすべて制覇した。それだけでは足りず、宮殿の書物棟にまで通い詰めるようになった。思うように動かない足を懸命に駆り立てて。
 フレティの語る言葉はアルに新鮮な驚きと一抹の悔しさを同時にもたらす。
 しかし、今日のアルは、物知りな弟分と同じ次元に立つことができたようだった。
「やっぱ頭煮えてるよな、あの人、絶対」
 こぶしを振り回しながらアルは言い募る。自分の寝台に腰掛けたフレティは、他の人間にはあまり見せない朗らかな笑みを頬に浮かべて、熱弁をふるう乳母子を見上げている。
「『天使の綿毛が降ってきそうだね』だぜ? それ、俺が起きたとたんに言うんだぜ!? いくら今日がくそ寒いからってさぁ……。何考えてんだよ一体。いい年して恥ずかしくないのかよ。なあ、お前もそう思わねぇ?」
 耳まで赤らめて怒鳴り回るアルである。一方フレティは、声を立てて笑っている。相棒の話の内容に、というよりは、相棒の様子に対して笑っているのだろうことは想像がついた。それが余計に、アルの顔を湯立たせる。
「おい、笑い事じゃないんだって、マジでさ。お前からも何とか言ってやってくれよ。じゃないと俺、もう毎日背中かゆくてかゆくて……」
「天使の綿毛が降る──か。トルバドゥール・シャレフの『新雪三題』の一節だね。アルも少しは文学が分かるようになったらしいよとでも、ファーハには伝えておくよ」
 悪びれる様子もなく、フレティは言ってのけた。アルは渋い表情を浮かべた。この勝負、アルの完敗である。
 それにしても、今日は近年まれなほどに寒い。ファーハの言うとおり、極上の砂糖菓子のような白く柔らかい天使の綿毛──すなわち、雪のひとひらも降りそうな気配だ。
 そして、彼女の予言は的中した。

「──アル! あれは何だ、何かが空から落ちてきている」
 フレティはがばりと寝台から立ち上がると、義足の左脚がもつれて金属のきしむ音を発するのも構わずに窓辺に取りすがった。
「次々と……小さい、白いものが、空から……」それきり、絶句である。
「何言ってるんだ、あれが〈ユキ〉じゃねえか……ああ、お前ひょっとして実物見たことなかったか?」
 アルの声音に、少しばかり自慢げな響きが混じってしまったのも無理からぬことと言えよう。
「俺がほんのがきの頃だったっけな、一回だけ降ったのを覚えてるよ。やっぱり朝から寒くてさ、窓の外見たらそんなことになってるから、寝間着のまんまで外に飛び出してって、風邪ひいて、しかられちまったんだけどな。さわったこともあるんだぜ。冷たくて、ふわふわで、でもよぉく見ると細かい羽根が組み合わさってるような形しててさ、手の上でじゅわっと溶けるんだ」
 アルが熱っぽく語る間、その顔をじっと覗き込んでいたフレティだが、ふと視線が自分の足元に落ちた。
「──私も、いつかさわれるかな」
 か細い呟きは、希望や憧れを語る言葉に似て否なるものだった。
 いや、むしろその真逆と言うべき響きだ。口調が、言葉の内容を、声になった端から否定している。私は決してさわることができない、それは分かっている、ただ言ってみただけだ──と。諦めることに慣れてしまった子供の、それは溜め息替わりほどの意味しか持たず。
 アルの知る限り、フレティはいつもそうだった……。
「お前、さわりたいか」
 アルは尋ねはしたものの、年下の少年の返答を待たずに言葉を継ぐ。
「そりゃそうだよな、当たり前だよな。フレティ、ちょっとここで待ってろ」
「え……待ってくれ、アル」口ごもるフレティを黙殺して、部屋の扉を押し開ける。
「すぐ戻ってくるから、ここにいろよな。分かったな?」
 音を立てて閉めた扉越しに、何かしきりに言い募るフレティの声がわずかに届いたが、構わずにアルは歩いた。

(アル、待ってくれ。私は何を望んだわけでもない)
 発した言葉は受け止められることなく、部屋の空気にはかなく溶けた。
(お前に何かをしてもらいたくて言ったのではないんだ。本当だ。だから)
 ……だから、ファーハにはどうか内証に。
 しかし、その願いが虚しいことも、またフレティは分かりすぎるほど分かっている。扉の向こう側から、何やら言い争う母子の声が届くが、わざわざ耳をそばだててそれを聞き取るまでもないことだった。アルは、彼の母親に談判しているのだ。私を外へ連れ出すために。
 私を、ユキにさわらせるためだけに。
 だが、ファーハの立場から言ってそれを容易に許すわけには行かないのだろうと、フレティは察して余りある。雪に見舞われるほど寒い日になど、外へ出ただけでもあっという間に呼吸をつまらせてしまう彼の身体である。大公家からの預かりものである自分を安全に取り扱う義務があり、一方で、自分の意向にはでき得る限り添うよう暗黙のうちに求められているこの乳母は、また律儀にも悩むのだろう。
 フレティは、扉に向かって歩きかけ、ふと足を止めた。
 アルを思いとどまらせるために自分が母子の言い合いの場に姿を現してしまえば、状況はさらにややこしくなるに違いない。少なくとも、ファーハにとっては。とどのつまり、自分はアルの言うとおり、ここでじっとしているしかないということなのだった。
 寝台によじ登り、力無く膝を抱える。
 不用意なことを口走ったのがいけないのだ。そうでないなら、自分が虚弱なのがいけないのだ。
 何を望んだわけでもないと美しい言葉を吐きながら、お前に何をしてもらうつもりもないなどと遠慮の振りをしてみせながら、あれはまさにフレティの本心だった。望んでないなら、言わなければよかったのだ。詮無き願いなら、他人に聞かせるべきではなかったのだ。
 華奢な背中を丸め、膝に顔をうずめると、翼のできそこないのような肩胛骨が衣服の上からも張り出して見える。生まれて初めて雪を見た高揚感は、もはや少年の中から消え失せていた。

***

 ふたりが外へ繰り出した時には、雪はやや強くなっていた。
 厚い外套の下の痩せた身体をぎゅうとすくめた少年を、年かさのほうの少年が自分の外套の陰に引き込んだ。成長期の兆候が見え始めたアルは、背丈も目方も決して発育がよいとは言えないフレティと比べて、ゆうに頭ひとつ半ほどは長身である。横幅が十分かどうかはともかくとして、ひとまず虚弱な大公子の風除けとしての用は足りるだろう。

 ──微笑んで頭を振るフレティを、半ば強引に着替えさせてアルは外へ連れ出した。
 何が彼をそこまで駆り立てたのかはよく分からない。ただ、フレティの微笑が頭に来たということだけは確かだ。
「……私なら、いらないよ。この窓から降る雪をながめられる。それでじゅうぶんだ」
 およそ九歳の少年とは思えない静かな口調で呟く弟分を、拳で殴りつけてやりたいとまで思ったのだった。殴ってしまえば本当にくずおれてしまいそうなので押しとどめたが。
「いいから来い。俺ひとりで寂しく庭先の犬っころみたいに遊ばせとくつもりかよ。冷たいやつだなあ」
「ならば、アルも一緒に書物棟まで付き合ってくれ。たくさん借り出したい本はあるんだが、ひとりじゃ持ちきれないんだよ」
「やだよ俺、そんな辛気くさくてつまんねえとこ。楽しいの、お前だけじゃん。最近ずっと何かっちゃあ書物棟入り浸りだけど、そんなにお前……」
 連射隊の放つ弓矢のごとく立て続けだったアルの言葉は、不自然に途切れた。それをフレティは見逃さなかった。
「『そんなにお前』、何だ?」
「……お前、頭ばっかり動かしてないで、たまには外出て身体動かせ。ちょっとでも外に出るのと全然出ないのじゃ大違いだぞ」
 じっとアルを見つめたまま、無言のフレティである。傾げた首の折れそうなほどの細さに、アルは胸を突かれた。
「ちょっとだけだし、俺がついてるから。雪さわったらすぐに戻ろう。な、それならいいだろ?」
 納得した、と言うよりはむしろ根負けした様子で、フレティは頷いた。アルはまるで自分が聞き分けのない駄々っ子にでもなったような錯覚にとらわれて不本意だったが、決定を覆す気はさらさらなかった。
 フレティが、純粋に自分の体調を慮って外出を拒否するならば、アルもこれほどに我は通さなかったのだ。ひとえに、フレティが慮っているのがアルの手間であったりファーハの立場であったりするから。フレティは何も言わないが、そうであることをアルは知っているから。こいつが、何でもかんでもひとりで先回りしやがるガキだから。
 ──腹が立つ。

 傍らの少年を見やる。フレティは、アルの眼差しなど知らぬげに空を眺めていた。はらりはらりと舞い落ちる小さな綿帽子。手を差し伸べて、フレティはそれらを受け止めようとしたが、折からの木枯らしにあおられ飛ばされてしまい、叶わなかった。悔しそうに彼は空を睨んだ。
 肉付きも血の気も薄いフレティの頬に差しているほのかな赤みは、寒さによるものに違いないだろうが、それでも、無表情かそれに酷似した微笑が貼りつくことの多い彼の顔に、珍しく年齢相応の屈託なさを与えている。
 連れ出してよかった、とアルは思った。
「アル! 〈天使の綿毛〉だな、これがそうなんだな?」
 子供特有の甲高い声が人気のない野原に弾け、霧散した。アルはフレティの頭に手を置いて、頷いた。「おう、そうさ。よーく見とけ」
 誰もいないに違いない場所を選び抜いて、ここへやって来たのだ。鬼ごっこにうつつを抜かす子供の嬌声はいらない。降り積むそばから行き交う人や馬車に踏みしめられてゆく、白粉になり損なった往来の水溜まりなどもってのほかである。
 場所を設定すると、アルはフレティを脇に抱えて地面に飛び込んだ。途端に、大地がふたりを温水のように柔らかく包み込む。そのままアルは泳いだ。フレティの息が切れかかってきた頃、ふたりは再び地面に浮かび上がった。非力な弟分はアルに手助けされて土から上がり、まるで何事もなかったかのように足元を踏みしめた……。
 粉砂糖がまき散らされたかのような野原に一等最初に足跡をつける歓喜を、味わわせてやりたかったのだ。
 寒さのせいばかりではない、ぎこちない足取りで、フレティは歩き出した。歩幅の一定しない靴跡が、うっすら敷き始めた雪化粧の上にひとつ、またひとつ刻まれてゆく。息も潜みそうなほどにゆっくりと。
 アルはふと思い立ち、背を向けたフレティに気付かれぬように再び地面に潜った。フレティの進行方向と自分の泳ぐ速度を少しの間考え、見当をつけ──一気に浮かび上がる!
「──な……っ!!」
 がらんどうの空に叫び声が響いた。
 慌てて差し伸べたアルの手は、だがほんの一瞬遅かったようだ。フレティは自分の足元から突然湧いて出てきた頭に大きくのけぞり、上体の均衡を取り戻すことができずにそのまま尻餅をついた。
「わ、悪い、大丈夫か」アルは血相を変えた。語尾がかすかに震えていた。
「どこも痛くないか、骨折れてないか、ひょっとして呼吸が苦しくなったのか? おい……フレティ!」
 くたりと頭をうなだれたまま何も答えないフレティの肩を揺すり、前髪の下に隠れた表情をアルが覗き込んだ、ちょうどその時、顔を上げたフレティとまともに目が合った。
 ──あろうことか、彼は笑っていた。
「……お前っ……」耳まで赤くして、アルは怒鳴りかけた。だが、そこで止まった。後の言葉が続かず、池の魚のように口をぱくぱくさせているばかりである。
 いよいよ声を上げて、フレティは笑い出した。外套を羽織っていても明らかに薄い肩を小刻みに震わせているさまが、あまりにも小憎たらしく、あまりにも子供っぽく、あまりにも朗らかで、アルはほとんど目が眩みそうな気持ちになった。そう、目も眩みそうに──
「……いい性格してやがんな、お前」
「おあいこだよ」
 顔を見合わせ、今度はふたりで笑い転げた。変声直後のしゃがれた声と、高く澄んだボーイソプラノが重なり合い、白い空に溶けてゆく。
 ようやっと掴み取れるぐらいの厚さに積もってきた雪を、手の中で小さく丸めてフレティはアルに投げつけた。完全に不意打ちだった。雪玉は短く刈り込んだアルの頭に命中し、砕けて、目の前をぱらぱらと落ちる。アルはすかさずやり返した。ただし、雪玉と言うにはほとんど握り固めていない代物であったし、狙いをつけたのも頭ではなく腕だったのだが。
 フレティのほうはと言えば、すっかり本気になってしまったらしい。普段の彼からは想像もつかないほどに幼い仕草で、自分の座り込んだ周りの雪をすべてかき集め、念入りに握り固めた。腕を振り上げ、手首をひらめかせる。
 間違いなく標的となるはずだったアルの頭は──突如、消えた。
 フレティは、呆気にとられてあたりを眺め渡す。少し離れた場所の地面が、一瞬だが不自然に盛り上がったのに気付いた。そこを目がけて彼は、思い切り雪玉を投げつける!
 狙いは悪くなかった。この場合、問題があったのはフレティの投げた球の速さと勢いだったろう。雪玉がよろよろと宙を飛び、力無く地面に落ちた時には、アルの身体は足先まで既に地上にあった。大地と接吻して砕けた雪の粒が、跳ね上がってアルの靴を白く彩った。
 笑み交わす。暗黙のうちに、ふたりは諒解した。
 すなわち、アルを鬼とした雪合戦である。地面に潜ったアルが頃合いを見て浮かび上がる、それを目がけてフレティが雪玉をぶつける……その繰り返し。単純な遊びだ。だが遊びというのはえてして、単純なもののほうが熱中しやすい傾向にあるらしい。
 ふたりは我を忘れて戯れ合った。
 そう、この時ふたりは、文字通り忘れていたのだった──フレティの呼吸器の脆弱さも、アルの魔力の限界も。


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(挿絵画像提供:香田朔也 様

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