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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第1章 その理由を】
第1幕

 暮れなずむ空を渡る風に、薄い帳がふわりとはためいた。
 少年は立ち上がり、帳を大きく開けてやった。そこに影絵のように映り込む、一羽の猛禽の姿をみとめたからである。
 一陣の涼風とともに、茶色い羽毛に身を包んだ鷹が部屋に舞い込んできた。それまでの滑空の余力であるのか、少しの間室内を飛び回っていたが、やがて少年の差し伸べた華奢な腕におとなしく留まる。
「よしよし、ご苦労様」
 わさりわさり、と鷹は羽根を鳴らす。返事のつもりだろうか。
 少年は目ざとく、鷹の右足に結わえつけられた細い紙切れを見やる。出発する時は右、帰ってきた時には左。それが常である。別段そのように取り決めた訳ではない。ひとえに、互いの手癖の為せるわざだろうと思われた。
 だから、期待はせずに、その紙の結び目をほどく。いや──もう期待することはやめた方がよいと、自分に言い聞かせてはいるのだが、それでもどうしようもなくそわそわと落ち着きのない手つきで、紐状に折り畳まれた手紙を開く。
 一行も読まないうちに、少年の瞳に失望の色が走った。手紙は無造作に丸められ、くずかごの底でぱさりと乾いた音を立てた。
「……また、か。ねぇ、カティア?」
 いつの間にか窓際の書き物机に落ち着いている鷹に向かって、少年は微笑みかけ、軽い溜息をついた。
 その、軽い溜め息の裏側で──少年は、彼にしてみればひどく重大な、一つの決心をした。

***

(……ズ、リ……ーズ)
 端から見れば大袈裟なほどに、少女は文字通り跳び上がった。明確な心当たりが彼女にはひとつある。まあ、いつかはばれるのだろうが──それならば、その「いつか」は、少しでも遅い方がいい。
(リュ……ズ、これリューズや、いるのは分かっておるぞ。早く出てくるのじゃ)
 跳び上がった拍子に天井に頭をぶつけそうになり、背中をかがめてどうにか回避する。
 おじいちゃん気付いてるのかな、とリューズは気をもんだ。それにしては穏やかな声だ。気付いているなら叱られても文句はとても言えない状況である。さて、どうしよう……。
 そろそろとリューズは寝台に寄り、音を立てぬように横たわり、掛け布団の端をあごまで引っ張った。
(リューズ、いいか、開けるぞい)
 ノック、ノブを回す音、続いて蝶番が軽くきしむ音。彼女はできる限りさり気なくいびきをかいた。
(何じゃ、寝ておるのか。ならば仕方ないのう。あのシチューは一人で食べることにしようかの)
 ……危うく、身を起こしそうになった。
 しかしリューズは身をもって知っていた。この老爺は年甲斐もなくいたずら好きのきらいがあるのだ。彼女の性質がそんな祖父譲りであるか否かはひとまず置いて、ここは慎重にならなければいけない。つまり、シチューなんて本当はないかも知れない、ということだ。
 一方で、嗅覚がしきりに訴える。鍋の中でたゆたう濃厚なクリームイエローが目に浮かぶようだ。嘘ではないぞ、さあ早く起きて食べるがいい。さもないと数日は後悔する……
(せっかくお隣さんからもらってきたのにのう。でもよく寝てるのを起こすのも可哀想じゃ。なに、わし一人でもあれぐらいなら食べられないこともない量じゃろ)
 ドアが閉まる音に続き、階下に降りてゆく足音が聞こえた。
 そう言えば、とリューズは思い出す。隣の家の娘に彼氏ができて、料理づいているのだが、レパートリーがシチューしかないため、ここのところ毎日シチューで家族中が飽き飽きしているとか。その話を聞かされて、じゃああたし食べますと自分は言ったのだ。確かに。
 ……彼女はついに決意した。
 階段を下り、居間のドアを開けると、あくびに似せた声を出す。
(いい匂いだから目が覚めちゃった。どうしたの? 今日ひょっとしてシチュー?)
 今さっき頭の中でこねったばかりの、台本通りの台詞である。祖父は振り向いた。
(おお、リューズ、起きたか。ちょうどよかった。お隣の奥さんが、お前にって言ってくれたんじゃよ)
(えっ、ほんとに? やったぁ!)
(まだ午後の二時じゃが、ちょっとばかり早めの夕食にしよう。食べるじゃろ?)
 ──一瞬、意味をつかみかねた。
(どうしたことじゃろう。リューズよ、この時計は時を逆に刻んでおるようじゃが……)
 リューズの口の端が、笑いに似た形を作ってそのまま引きつった。
(ど、どうしたんだろうねえ? いっつもおんなじ方向に回ってるの飽きちゃったとかぁ?)
(いっつもおんなじ手入れをするのに飽きてしもうたか、リューズよ)
(ご、ごめんなさいおじいちゃんっ!!)
 謝りつつも、懸命に言い募るリューズである。
 この時計はいつも同じ音しか出なくてつまらない、と思ったのが始まりだった。いつも鳴っている音程を巻き戻しにして鳴らしてやったら少しは面白そうだと考え、祖父の仕事の見よう見まねでやってみたところ、魔法の注入具合をどこか間違えたらしい。針が逆に回る時計ができあがってしまったのだった。
 何事にもチャレンジする姿勢を認めてほしいと言うと、祖父は苦りきった表情で溜め息をついた。
(まったく……リューズよ、どうしてお前はそういうしょうもないことを思いつくかいの)
(ごめんなさい。もうしません)
(お前は改造というものの極意を分かっとらん。わしの子供の頃は、ネジを巻くために人が近寄ったら振り子が突然前後に振れるとか、そういうウィットのある改造をしたもんじゃ)
(分かった、今度はそうしてみるよ。やり方教えて)
(これ、調子に乗るでない!)
 祖父はリューズの頭をはたく──

「──あ痛っ!」
 リューズの頭をはたいたのは祖父の骨張った手ではなく細長い木の杖で、鼻腔をくすぐるのはシチューの匂いではなくまだ紙に微かに染みついて残るインクの匂いだった。
 しかしリューズはこの場でとっさに現状を把握できるほど中途半端な眠りに落ちていたわけではなかった。
「何でよー! おじいちゃんのだっていたずらじゃん、おんなじじゃん。血は争えないってことだよ」
「生憎だが、私には授業中に居眠りをするような孫はおらん」
 厳しい声音が、焦茶色の軽い癖毛に降りそそぐに至って、ようやくリューズは状況を理解する。
 ──主任教官・ヒストの授業中。
 本来は歴史学の教官、および物質に宿る過去の記憶を引きだす魔法の研究家であるはずだが、生徒の間ではその声の届く範囲の人間すべてを眠りに誘う魔法の大家だと陰口を叩かれているヒスト老師。一方で厳しさも学院中随一なため、彼の授業は睡魔と取っ組み合いの格闘を強いられる、生徒にとっては拷問に近いひとときと言えた。
 そのヒスト教官の前で堂々と机に突っ伏して居眠りをし、叩き起こされた揚げ句にまだ夢の世界に片足を突っ込んでいたわけである。仕置きは軽くあるまい。
「……あ、あー……ははははっ、せ、先生おはようございますー……」
「挨拶はよろしい。リューズ君、続きを読みたまえ」
(つ……続きぃ?)
 そんなこと言われても、どこを読めばいいのか全く分かるはずがないリューズである。先生どこを読めばいいんですかなどと訊いたものなら、火に油を注ぐだけだ。ならば外れてもともと、あてずっぽうで適当に読み始めてみるか……。
 その時、隣の席からさっと教科書が滑り込んできた。開いたページの一ヶ所をつんつんと指で指し示して、リューズに囁く。
「リューズ、ここよ、ここ」
「あ、ありがと、リリアン! えーと、『その時、地は裂け、海は開き……』」
「どこを読んでおる! そこは三ページも前だ!」
「ええっ!? は、話が違うじゃん!」
 木の杖でしたたか頭をしばかれながら、リューズは視界の端に肩を震わせて忍び笑いをしているリリアンの姿を認めた。
(こ、この女……)
 腹黒いと言うべきか、信じた自分がうかつだったと言うべきか。
「リューズ、授業が終わるまでそこに立っておれ!」
 クラスメートの笑い声をうつむいた後頭部で受けながら、恨みを込めてリリアンを睨むリューズである。だが、続くヒストの言葉はそんなリューズにとってささやかな朗報だった。
「リリアノールも同じくな。ことさらに隣人を陥れるのは感心せん」
「……はい。すみません」
 憮然として立ち上がりながら、リリアノールことリリアンはリューズの靴を蹴った。リューズも負けじとやり返し、机の下で熾烈な戦いが展開される。教官の杖が鳴った。
「いい加減にせんか、リューズ、リリアノール! お前達はおとなしく立っておることもできんのか!」
 いよいよクラス中の笑い物となった彼女たちである。ヒストは教壇を杖で二、三度叩いてざわめきを静めると、そのまま何事もなかったように授業を進める。土色の髪の少女は居眠りの罰として、豪奢な金髪の少女は過ぎたいたずらの罰として、この授業が終わるまで立たされることとなりそうだ。
「神々の争いにより、それまでひとつであった大陸は、一昼夜にして三つに割れた。それにともない、神より与えられし魔法の力も散逸し、人間が持ち得るものは、それらのみすぼらしい残滓のみとなった。──ここまでは、前回の授業の復習だ」
 つまり、リューズの読み上げた部分である。声に出して読みながら、これは既に習った箇所だと少しも思わなかった訳であるから、リューズに非は少なくない。
 ヒストは、机の波間を巡回しながら、明晰だが四角張った声音で教科書を音読する。
「そして、残されたわずかな力を、これ以上弱めることなく後世に残そうと考えた先人達が、結集してひとつの国を作り上げた。これが、今世に言うところの魔法王国の始まりであると伝えられている……」
 リューズは、ヒストの声を頭の中で素通りさせながら、窓の外を眺めていた。野蛮なまでに明るい初夏の日差しが、白っぽい渡り廊下に照り返って目を灼く。視線を上げれば、雲ひとつない浅黄色の大平原だ。
 こんな日には、あの時計塔のてっぺんに腰掛けて、光で飽和した風に髪をなぶられるに任せるのがいい。大きな時計塔は、リューズの育った街のシンボルだ。そして、この時計を点検するのは、魔法時計工房である彼女の家に託された、栄えある仕事である。
 地面を軽く蹴れば、彼女の身体はぐんぐん上昇し、いくつもの屋根を越えてゆく。見下ろす景色は、まるで箱庭である。ひとっ飛びで時計塔の屋根に着くと、リューズは日が暮れるまでそこにたたずんだ。おもちゃ箱のような町並みを、飽きることも知らずに眺めて。
(ああ、外行きたい……どうせ寝るなら屋根の上がいいなぁ……)
 ──溜め息つくより、食べて寝ることだと、優しく教えるあの青い空の下で。
 リューズの夢想を置き去りにして授業はゆるやかに続く、かに思われた、その時である。
『……校内放送です。緊急会議を行いますので、各先生方、速やかに第一会議室までお集まり下さい。繰り返しお知らせします。緊急会議を行いますので……』
「会議? そんな話は聞いていないが、私は……」ヒストは首をひねった。
 しかし、やけにせわしない呼び出しの声である。何かよほど急ぎで取り組まなければなければならない事態でも起こったというのだろうか? 今まさに説いて聴かせようとしていた歴史の大河。これを中断せざるを得ないほどの事態が?
 何にせよ、ヒストは行くより他に術がなかった。
「……聞いての通りだ。私はこれから会議に行くから、各自静かに自習をしておるように。くれぐれも騒ぐのではないぞ」
 さらに、リューズに目を向ける。
「居眠りもせんようにな──と、リューズ!」ヒストは突然声を跳ね上げた。
 リューズの膝がかくりと落ち、上体が大きく揺らぐ。その衝撃で我に返った彼女は、驚いてあたりを見回し、ようやくヒストの視線に行き当たった。針のような眼光だ。
「居眠りで立たされている最中に、寝る阿呆がどこにいるか!! お前には特別に課題を与える。明日のこの授業までに、間違いなくやってこい。さもなければ──」
「さ、さもなければ……?」
 杖の先で軽く床を鳴らし、ヒストは厳かに告げた。
「この校舎の、残らず全ての便所掃除だ」

***

 物心ついたときには、父も母もいなかった。
 若くして病死したという母の記憶は一切ない。だが、父については、覚えているというレベルでは到底ないが、頭のほんの片隅にうすぼんやりとした像を結ぶ。それすらも、もっと鮮明な像を求めようとすればたちまちかき消えてしまうのだが。
 父は時計職人で、その父──つまりは祖父──もまた時計職人だ。彼女の家は代々魔法時計工房である。何代前から続いているものかは、リューズには分からないが。
 父はさらに高度な時計の製作技術を求めて旅立ったと聞いている。父の旅立ちについては、何も思い出せないし、旅立ったという父が家族のもとに戻ってきたこともないはずだ──彼女の覚えている限りでは。
 父は、すなわち、背中だった。玄関の扉を開けて出てゆく背中。決して振り返らない背中。顔はおろか、背格好すら定かでない。ただ、背中の印象のみ。
 父も母もいない彼女は、祖父によって育てられた。
(時間はたゆまず流れてゆくのに、時計の刻む時間はその歩みを遅くし、やがては止まる。のうリューズよ、これは理不尽だと思わんかね)
 生きているうちに究極の時計を作りたいという祖父は、幼いリューズを膝に乗せていつもそう語りかける。
(時の流れそのものが止まらぬ限り、永遠に動き続ける時計。この世界の時、そのものを象徴する時計じゃ。これこそが究極の時計じゃないか、そうじゃろ?)
 もちろん、十にも満たない少女に祖父の告げる言葉の意味など分かりはしない。リューズにとってはちょうどいい子守歌程度のもので、語りの最中で寝入ってしまうのが常なのだが、祖父にはそんなことは気にもならないようだ。
(ああ、わしがもう少しばかり若ければのう。せめてクラウスぐらいに)
 壁に立て掛けられた、一向に完成の気配のない振り子時計をながめて、祖父は嘆息する。クラウスとは彼の息子の名であり、リューズの父の名であった。
(そうすれば、世界中のどこへでも、究極の時計作りの修業へ出かけられようものを。ふむう、やはり若い者は羨ましいわい。身ひとつで世界中を旅できるのだからなぁ。若者は旅をするべきじゃよ……)
(いやだよ……おじいちゃんが旅に出ちゃったら、リューズひとりぼっちだよ。さみしいよ)
(そうじゃのう。そうしたら、リューズも一緒に行こうじゃないか? まさに世界中の時を形にする時計を作る旅だよ。どうじゃ、わくわくするじゃろ?)
 リューズにはやっぱり意味が分からない。けれど、祖父の、そこだけ青年のように輝く眼をながめているうちに、それは何やらとても楽しく、また崇高なつとめであるような気がしてくる。
(うん。リューズも行く!)
 祖父はこの上もなく満足げに微笑む──

 ──自分のくしゃみで、目が覚めた。
 なかなか離れたがらない上と下の瞼を手の甲で強くこすると、ぼやけた視界に本棚が映った。これは……表紙が折り目から切れてしまうほど読み潰した冒険物語の本。それから、最初に置いて以来、一度も動かした試しのない「魔術大全」の背表紙。
 起き抜けの目に、どうやら点けっぱなしだったらしいランプの残り火が眩しい。だが、それでだいぶ目は澄んだ。ぐるりと部屋を見渡すと、安らかに寝息を立てているアイルと、布団の中で小さく丸まって何事か寝言を唱えるリリアンをみとめた。どちらも、リューズのルームメイトだ。
 部屋の中は、ほの暗い光に照らされている。ランプによるものではない──窓から差し込む、朝日の断片だ。
(……やっば、ひょっとしてあたし、またうたた寝?)
 がばりと跳ね起きる。何と言うことだ! 今から課題の残りに取りかかって、始業に間に合うだろうか? いや、何としても間に合わなければならない。さもなければ……。
(便所掃除──あそこの)
 リューズは身震いした。あの棟のあの階を除くすべての便所掃除に、何ならば廊下磨きをつけてもいい、どうかあそこの便所だけは勘弁してもらいたい。
 窓に歩み寄り、外を眺めた。この窓からは学舎のほぼすべてを望める。生徒達の間で〈呻きの間〉と呼ばれ忌み嫌われる一部屋は、ここから見える部分のちょうど裏手だ。あんな不気味な部屋がこちらになど向いていなくて本当によかったとリューズは思う。
 〈呻きの間〉から、たびたび壁のきしむ音や飢えた獣のような喉吠えが聞こえる──というのは、およそ魔法学院の生徒で知らぬ者はないほど公然の怪談である。教官陣が顔をしかめて否定すればするほどに、噂は真実味を帯びてゆく。事実である必要はなかった。誰もが尻込みして真相を突き止められない分、想像力はたくましく、尾ひれの上に尾ひれの付いた噂が横行してゆくのだった。
 リューズは窓枠から上体を突き出して、大きく伸びをした。
 本格的な日の出にはまだ早い、薄紫の明け方の空だ。空と同じ色に染まった空気は、ネグリジェ一枚きりの肌には少し寒く、もう一度くしゃみが出た。
 青い薄紗ほどの霞がかかっている。今日はひときわ暑くなりそうだとリューズは思った。霞の中に沈み込む学舎。
(ああ、せめてヒスト先生のほとぼりが冷めるまででいい、学校消えててくれたりしないかなぁ……)
 ──そんな、不謹慎な願いがまかり間違って天に通じたのか、否か。
 学校の、建物の輪郭が、今まさに大気に溶けるようにして淡くなり、霧散している。
 苦し紛れの幻影だろうか? それとも夢の中か?
 リューズは目をこすり、もう一度学校を見つめた。二度、三度、目をこすり、繰り返す。そのたびごとに、建物の輪郭は少しずつ溶け、大気の一部となってゆく。
「────……っ!」
 声にならない声を上げながら、リューズは跳び上がった。拍子に、天井に思い切り頭をぶつけたが、今はひとまずそれに構っている場合ではない。
「ちょ、ちょ、ちょっと、アイル! リリアン!」
 ルームメイトを乱暴に揺さぶった。寝ぼけ眼で起き上がるアイルと、ますます布団の中に潜り込もうとするリリアンを、二人まとめて窓のほうへ引っ張ってゆく。
「何なのよ、まったく……あたくしの睡眠時間を邪魔しないでくれるかしら……」
「いいから、ほら」
 窓際に大股で歩き、もどかしげに手招きする。リューズが指し示す先を見やったアイルとリリアンは、息を呑み、それきり絶句した。
 ──消えてゆく。学校が。
 つい今しがたの自分とまったく同じように、目をこすっては眺め、こすっては眺めするルームメイトを、さらりと視線でなでてから、リューズは窓枠に身を乗り出した。
「あたし、行ってくる」
「行ってくるってリューズ、ちょっと……うわぁっ!」
 アイルの台詞の後半は、叫びが取って代わった。女子寮棟の三階にあるこの部屋の窓から、リューズがやおら地面に向かって飛び降りたからである。日常茶飯事なのだが、周りの人間にとってみれば、あまり心臓に良い構図とは言えなかろう。
 リューズは腕を大きく振り上げた。
「待っててね、何事が起こったのか分かったらすぐ知らせるからさ!」
「リューズ、せめて上に何か……」アイルの声が、切る風の狭間に途切れがちに聞こえた。
 肌をなでる冷たい空気。着地した瞬間に、足の裏に軽く伝わる衝撃。
 再三くしゃみをして、リューズは気付いた。
(げ、裸足にネグリジェのまんまで出てきちゃったよ……)

 スキップを繰り返すたびに、リューズの小柄な身体は、よく弾むまりのように放物線状の軌跡を描く。そしてそのたびに、学校はじわじわと朝の霞に消えてゆく。
 沈んでゆく、のではなかった。立ちのぼってゆく、のでも。
 建物は外側から徐々に、だが着実に淡くなり、もともとの輪郭は既に透明だ。普段ここからは決して見えることがない、建ち並ぶ書店やカフェテリアの軒、遙か向こうに連なる山の峰が映り始めている。
 学校は、もとの大きさの半分ほどになって敷地の中央にわだかまっているが、それでもまだ、縮み続けてゆく。
 リューズは、かつては昇降口だったと思われる場所で立ち止まり、言葉もなくその光景に見入った。
 壁をかたちづくる煉瓦が、ふっと揺らぎ、ごく小さな霧の粒のようになって、わずかに大気を流れ、かき消える。そうして現れる新たな輪郭が、また揺らぎ、大気に溶け……その繰り返し。さながらコップの水に落とし込んだ泡飴のようだ。
(──この煉瓦、全部同じ方向に流れてる?)
 そのことに気付いたリューズは、もと煉瓦だった霧の流れる方向へ跳んだ。否、跳ぼうとした。
 できなかったのは、そこをちょうど、一人の教官が通りかかったからである。鷲鼻に高い頬骨、ややくぼんだ眸が厳格そうな初老の男。歴史の教師であり、物質に宿る記憶を読みとる魔術師であり、ここ魔法学院の主任教官、それはまごうかたなく──
(ヒスト先生っ!? な、なんでこんな時に!)
 リューズはとっさに隠れようとし、身をひそめるべき建物が既に消滅しかかっていることに気付いた。よりによってヒスト先生に出くわすとは! まだ課題も終わっていないのに、見つかるわけには行かない。だが、どこへ隠れればいいのか? 大きな木立はここからは少し離れている。向かえば、かえって見つかるだろう。万事休すか……。
「ヒスト先生、こちらです」
 どこからか、ひそやかな呼び声がした。リューズがまさに行こうとしていた方向だ。
 リューズは苦し紛れに、その場にうずくまった。できる限り身を縮こめて、顔は隠して。自分は石ころだと一心に念じた。ちょっとばかり大きくて、生暖かく柔らかいが、それでも自分は石だ。地面に転がるありふれた石なのだ。
 ヒストの足音が荒くなった。
「院長先生、お待たせいたしました」ヒストは、うずくまるリューズの前を足早に通り抜け、足元を顧みることもなくそのまま歩き去ってしまう。
 リューズは上体を起こした。ヒストは完全に後ろ姿になっている。なるべく音を立てずに、立ち上がってみる。……大丈夫、のようだ。もう少しだけ思い切って、一歩歩いてみる。これも大丈夫らしい。リューズは味をしめた。物語に出てくるスパイのような気分で、ヒストを尾行してゆく。
「申し訳ないですね、こんな夜も明けない時分にお呼びをかけてしまって」
 ヒストではない男の声がかすかに届く。先ほどのやりとりを聞く限り、院長であるのだろう。リューズは足を止め、あたりを見回した。ちょうど植え込みがあった。ごく低い木ばかりだが、贅沢は言っていられない。
(院長先生って、ほんとに朝早いんだなぁ)
 誰よりも早く学校に着き、誰よりも遅くまで学校にいると評判の、魔法学院の現院長・ベント二世である。毎日同室のアイルにたたき起こされて、かろうじて遅刻せずにすんでいるリューズには、及びもつかないことだ。
 リューズは、中腰になりながら、植え込みの限界まで彼らに近付いた。豊かに茂った枝葉の向こうから、ようやく生まれたての朝日が差し込み、目を灼いた。耳をそばだてると、途切れがちに話し声が聞こえる。先ほどよりも声を低くしているらしい。
 何を話しているのだろう。学院が消えてしまったことか? そうに違いないとリューズは思う。目の前で空気になってゆく学院を、院長と主任教官はどんな心持ちで眺めたのだろうか。
(何にしたって、校舎がなくなっちゃったんだから、便所掃除は免除だよね)
 不謹慎な思いを頭によぎらせた、そんなリューズの耳に。
「……アメリア姫の……を……処分……」
 ぴくりと身を震わせ、植え込みの外を覗き込む。眩しい。手でひさしを作ってもう一度見やったが、それでも彼らの表情は量りかねた。
「……ケッカイショウ……大公から……。……それが勅命ですから……が……」
「……雨の都へ。ひとまずすべきことはそれより他に……」
 ──先生たちは、いったい何と?
(アメリア姫……処分?)
(大公の勅命で?)
(先生たちが雨の都に?)
 ──さっぱり、訳が分からない。
 全身を耳にして、さらに聞き入ったが、それ以上の言葉は聞こえなかった。一瞬にも、ずっと長い時間も感じられる間、リューズは石のように固まっていた。いつしかベント二世とヒストは連れ立って去っていったが、それでもなお、たたずんでいた。
 やがて、不自然な体勢にリューズの膝がきしみを訴えた。我に返った彼女は、ネグリジェが土まみれになるのも顧みず、その場にへたり込んだ。
 疲れたのだ。尋常でなく。肉体的にというよりは、むしろ精神的に。それも、ヒストの尾行にではなく、もっと違う何か……。
(何、さっきの? ものすごい強い……魔力、だった──)


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