鋼の祈りTOP櫻井水都文庫
 
鋼 の 祈 り
〜The scrumble echoes of iron〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第一章 約束】

第一幕 短剣とボストンバッグ


 視界の端を、すっと黒いものが掠めた。
 イシュトレーナは身を固くして、首だけをせわしなく動かしあたりを見回した。誰の姿も見当たらない。見当たらないということが、かえって彼女の鼓動を早くした。
 立ち止まり、息を潜める。何者かに追われているのだとすれば、心当たりはないと言えば嘘になるが、自分はそれを出し抜かなければならない。見つかって連れ戻されるために逃げ出す愚か者など、どこにいるものか。
 うなぎの寝床のような路地だ。道幅は彼女の家の車庫よりも狭いかもしれない。ということは、おそらく乗用車一台がぎりぎり通れるかといったところだろう。車で追いつめられでもしたら、逃げ切ることは不可能に近い。耳をすましたが、それらしき音は聞こえてこなかった。ここは早いうちに抜けきってしまうのが得策だ。
 ──自分を取り巻く世界は狭いのだと、承知はしていた。
 だからこそ、逃げたのだ。あの屋敷のすべてが自分の足枷だと思った。ところどころに名画の掛けられた壁も、シャンデリア輝く天井も、繊細な彫刻の窓枠から臨める手入れの行き届いた庭も、黒光りする堅牢な門も。すべてが、煩わしいと思った。
 ──自分の見知った世界は狭いのだと、承知はしているつもりだった。
 そっと自室の窓から抜け出し、門番を出し抜き、高い塀を乗り越えて、一歩外へ出てしまえばそこは既に彼女にとっては未知の領域だ。運転手の操縦する車に乗って、遠出をしたことはある。兄に付き添ってもらい、あるいは影から護衛に見守られ、街に繰り出したこともある。しかしそれは、彼女の世界を広げる要因になりはしなかったらしい。
 道端に野良犬が寝そべっていたので、一本手前の路地を曲がった。
 曲がり角の奥に千鳥足の人影を見たので、気付かれぬようにまっすぐに通り過ぎた。
 気付けば、最初に計画していたルートを外れてしまっている。古い街並みをそのまま残すこのあたりの通りは、細い道が不規則に交わり、袋小路も多く、まして真夜中となれば不案内な人間ならばたちまち迷ってしまう。
 自分はこの街に不案内なのだ。そのことに、イシュトレーナは愕然とした。
 生まれて育った街を、ひとりで歩くことができない。息を詰めて、ふところの中に固い感触を探り当て、お守りか何かのように短剣の柄にすがりつくだけの、無力な少女。それが自分だ。
 萎えていきそうになる自分の心を、彼女は叱咤した。おてんばなお嬢様。幼い頃から氷の上を進むようなことが大好きな、気の強いレナ。それこそが自分だ。道を見失っても、どこへ向かえばいいのかさえ漠然としていても、わたしは歩かなければならない。
 イシュトレーナは、ずり落ちかけていたボストンバッグを肩にかけ直した。
 もっと、遠くへ。

 ……生バンドの演奏が、尽きることない談笑のヴェール越しに聞こえていた。
「イシュトレーナさん、今日は素晴らしい日だ」
 二十代前半と見える青年が歩み寄り、にこやかに微笑みかけてきた。イシュトレーナは笑み返した。それが義理以外の何ものでもないことは、彼女自身が一番よく分かっている。
 そもそも、彼の名前すらあやふやだった。似たような男はたくさんいるのだ。少し様子がよく、口が巧く、資産家の子弟で、わたしに近寄ってくる男。彼もその中の一人であるという認識しか、イシュトレーナにはなかった。
「今日のこの日を、天気も祝福していると見えますよ。空をごらんになりましたか? まるで降ってきそうな星空だ」
「まあ、そんなに綺麗に晴れているんですか?」
 ワインのボトルをかざす青年に応えて、イシュトレーナはグラスを手に取った。深紅の液体が注がれ、五分目ほどで止まる。二人は軽くグラスを合わせた。キン、と澄んだ華奢な音が響いた。
 ワイングラスに口をつけ、イシュトレーナは飲むふりをしてわずかに唇を湿らせただけだった。この相手からの酒を飲む気はさらさらない。
 彼にしてみれば、それが自分のチャームポイントであると信じて笑顔を向けてくるのだろうが、何しろイシュトレーナはその笑顔こそが嫌いなのだった。あなたの笑顔は何に対して向けられているの。見え透いたことをいくら口走ってみたところで、まる見えなのよ。
「ご存知なかったんですか。では、テラスにでも出てみましょうか……もっとも、いくら綺麗な星と言えど、今日のレナさんとは比較するのもおこがましいだろうけれど」
 青年の視界の外で、イシュトレーナはしきりに足の裏を床にこすりつけた。よくもまあ、臆面もなくこんな痒い台詞を吐けたものだと毎度ながら思う。しかも、レナさんと来た。イシュトレーナの愛称であることは確かだが、兄以外の男性にこの呼称を許した覚えはない。
 ワイングラスを持つ手が震えたが、イシュトレーナは懸命にこらえた。嫌悪感に任せてグラスの中身を相手にひっかけてしまわないように。派手な行動を起こしてはならなかった。無難に振る舞うのよ、レナ。今だけでいいのだから。
 何もかも、今さえ乗り切ればすむのだから。
 ……星空、夜風、談笑。弦楽器の音色。女たちの香水の匂い。目もあやに並べられたディナー。そして談笑。
 すれ違う客人たちに会釈を返しながら、イシュトレーナはそっと広間を抜け出した。
 そのまましばらく静かに歩いていたが、やがて彼女は長いドレスの裾を両手でたくし上げ、大股で廊下を駆けた。
 誰にも見咎められずに自分の部屋にたどり着くと、手早くドレスを脱ぎ、衣装箪笥の扉を開ける。あらかじめ用意してあった外出着とボストンバッグを引っ張り出し、身支度を整え、ドレスを中に放り込んで何事もなかったかのように衣装箪笥を閉めた。
 ベランダから、庭を見下ろす。門番の姿はない。
 ベッドの下から縄を取り出し、片方の端をベランダの柵にくくりつけ、残りを下に垂らす。彼女はボストンバッグを背負い直すと、柵を乗り越えて縄にしがみつき、一気に庭へ飛び降りた。喉元までせり上がってきた悲鳴を懸命にかみ殺す。彼女の細身のシルエットが、縄の動きに随って頼りなく揺れる。ようやく着地した時には、彼女の柔らかい掌は真っ赤になってひりひりと痛みを訴えていた。
 額に薄くにじんだ汗をハンカチーフで拭う。まだ、始まってもいないのだ。
 彼女は後ろを顧みた。豪壮な屋敷だと、住み慣れた身ですら思う。
 宴はまだ当分続くだろうか。この家の財力を誇示するかのように、華やかに催されるパーティ。まだ気付かれてはいないはずだ。彼女こそは、このパーティの主役だった。宴がお開きに向かう時になって、ようやく人々は気付くのだ。今日のヒロインが不在であることに。
 屋敷に背を向け、彼女は駆け出した。
 ──イシュトレーナ・グレイダ・ライアネルは、今宵で十八の年を数える。

 入り組んだ小径、眠りこけた街並みは、まるでゴーストタウンのように静まりかえっている。ここがまだ、治安の良い旧市街であることの証だ。旧市街の住民というのは貴族の出身が多く、古くは王都だったこの町に競うように豪邸を建てた、その名残が今でも残っている。
 この静けさに馴染めないものを、旧市街は淘汰する。
 旧市街の外側にドーナツのように形成された新市街は、まるきり異世界である。眠らずの街、増殖する街、喧噪の街……表現はさまざまだ。そして、猥雑な華やかさの陰に、スラムが黒々ととぐろを巻いている。
 ──こんな真夜中に、一人で通過したい場所ではなかった。
 だが、いつかは通り抜けなければならないのだ。それも、できる限り早いうちに。一晩かけて市街地を脱出することもできず、夜明けと同時に追っ手に捕まって連れ戻されるなど、冗談ではない。
 しかし……。
 お嬢様、そのようなところはお嬢様がおいでになるに相応しい場所ではございません。イシュトレーナが外出する時には、護衛係の半ば口癖と化している忠告である。イシュトレーナは一度で頷いた試しがなかった。だって、つまらないんだもの。わたしの知ってるメーヴェルは半分でしかないのよ。生まれた街の半分を見ちゃいけないなんて、おかしいと思うわ。
 あくまで退かない構えを見せると、護衛は溜め息と共に頷くのだった。
「お嬢様には敵いませんね……。それでは、不肖わたくしがお隣を護らせていただきます。陰からでは足りませんから。しかしほんの少し見聞なさるだけですよ。よろしいですね?」
 イシュトレーナはようやく妥協する。新市街にあって旧市街にないものすべてに声を上げ、適当な頃合いになって護衛が促すまで、好奇の眼差しを隠そうとしない。そして、胸を反らして言ったものだ。ほら、やっぱり新市街は刺激的で面白いわ、と。
 そんな悠長な感想が浮かぶのも、ひとえに護衛がついていたからこそだったのだと、今更ながら悟る。
 深夜に、一人。懐の短剣もあまりに頼りない。
 あたりを窺ったその時、もう一度黒いものが視界を駆け抜けた。彼女は反射的に短剣を引き抜いた。
「……誰なの?」
 声をひそめて、イシュトレーナは問うた。やや腰が退けていることを除けば、それなりに基礎を押さえた構えである。顔の前に鋼の刃をかざしたまま、彼女はゆっくりと旋回する。その動きに追随して、黒い何ものかも動いていき、彼女が路地の壁に背をつけると同時にふっつりと消えた。
 見上げた先には、街灯のぼやけた光。
 イシュトレーナは腕をがくりと下ろして、大きく息をついた。してみると、先ほどからわたしが怯えていたものは、他でもない、自分の影であったらしい。
 ──情けない。
 まだ市境ひとつ越えていないというのに、何という有様なの。こんなことでは、先が思いやられるというものよ。頭をひとつ振り、彼女は短剣を懐に収めた。子供の家出ごっことはわけが違うのだ。自分の今後を占う逃避行なのだ。どこまで行けるのか、否、どこまで行こうか。
 答えは、初めから決まっていた。
 ──どこまでも、できる限り遠くへ。


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