鋼の祈りTOP櫻井水都文庫
 
鋼 の 祈 り
〜The scrumble echoes of iron〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【序章 前夜】


 茂みの向こうで、銃声がとどろいた。
 あっ、と女は小さく叫んだ。地面を蹴る足が一瞬止まる。女の手を取って半歩先を駆けている男は、振り向き、吐息とともに呟いた。
「──ボス、か」
 男の言葉は質問ではなく確認だった。だから女は答えず、ただ男を見返しただけだった。
 音の大きさ、聞こえてきた方向、両方を考え合わせて、自分の推量は外れていないと男は確信していた。しかし、その確信は、彼らの心に何の喜びももたらしはしなかった。
 我々のボスは撃たれたのだ。そして、程なくして息を引き取るだろう。
 暗澹たる気持ちになる。これから一体どうなってしまうというのだ? 我々は。我が国は。我らが──世界は。
 明け方の露を絡め取った下草が、急に重くなった。靴の高さほどの丈もなかった筈の草が、今は彼らのズボンのくるぶしあたりまで湿らせている。いよいよ、市街地の外れにまで追いつめられてしまったらしい。
 海に面した町だ。隣町に接していない町外れは、すなわち荒海に接している。
 潮の香りが立ちこめているが、朝は早くない。海からそそり立つ絶壁の上にできあがった町は、港町とはなり得ないのだった。
(……ボス、が)
 死にゆくさまを看取ることもできないのか? 物理的な距離だけならばすぐ近くの筈だ。駆け寄って、いまわの際の言葉を聞き届けることぐらいはできるのではないか。彼女の唇は紡ぐだろうか? 生前頻繁にそうであったように、ひとりの人間の名前を──ジュノン、と?
 いや。男はひとつ頭を振った。そもそも、銃弾が貫通したとも限らないではないか。案外、ボスは撃たれてなどなく、例えば今にでも、背後からそっと現れて「心配させたわね」などと言って微笑むかも知れない……。
 彼らは、ほんの少し躊躇した。それが直接仇となったのかどうかは定かでない。
 ──振り向いた女の視界に、一人の、背の高い制服の男が映った。
「会いたかったぞ、不良社員ども……」
 制服の男は、唇の片方の端だけを酷薄に歪ませた。
「……いや。貴様らの顔を立てて、テロリストども、とでも呼んでやろうか」
 自分の言葉になにがしかの感銘を覚えたのか、彼は声を立てて短く笑った。肩を寄せ合う二人に据え付けた鋭い目は、少しも笑ってなどいないが。そして、その短い笑みを収めた時には、制服の男は既に二人に対して完全に照準を合わせていた。
 銃口に睨み据えられた男と女は、言葉によらない意志を、衣服越しに接する互いの肌で共有した。
 多くのことが、一瞬にして起こった。
 寄り添う二人の中心に向けられた銃口が、動く気配がした。女は、最初に狙われるのが自分ではないことを察した。相棒が静止するよりも早く、女は相棒たる男を押しのけた。──駄目だ。それだけは。押しのけられた男にためらいはなかった。男は女を突き飛ばそうとした。命に代えても守るべきだった。
 ためらいは、ない筈だった。そう、ほんのひとかけらも。
 女は銃口の前に、自分の豊かな胸を突き出した。そして男を顧みる。「生きて!!」
 ──事態は、決した。
 まだ目覚めない町の空に吸い込まれてゆく、無機質かつ非情な音を、男は夢の中の出来事のように聞いた。草の上に倒れ伏す女の身体から、鮮やかな紅いものがちろちろとあふれ出すのを、まるで良く出来た奇術のように眺めていた。
「ドロテア……おい?」
 男の声は笑いを含んでさえいた。目に見えるものすべて、耳に聞こえるものすべてに、現実味がなかった。
 女の唇が、力無くわなないた。男は耳を寄せた。「……いいの、これで。生きるのよ……あなたは、あなただけは、生きて──そして、成し遂げて!」女の頬が痙攣するように上がった。笑ったのだ。
 新たな足音がやってきた。銃口をぴたりと固定したまま、制服の男はわずかに振り返った。「少し遅いぞ」
「申し訳ありません」駆けつけてきた数人の男のうちの一人が言った。「若干手こずらされたものですから……〈彼女〉は始末しました。よろしかったでしょうか、部長」
「問題ない」
 部長と呼びかけられた男は即答した。およそ感情というものを極限まで排除したような声色だ。
「我々の任務を覚えているか。〈彼女〉とその一味を逃がすな、と命じられたのだ。〈彼女〉については、極力生きたまま連れ帰れと言われはしたが、そこにとらわれるあまり生きたまま逃がすのは愚の骨頂。優先順位の問題なのだ。我々に落ち度はない」
 処理能力というもののおよそ抜け落ちた男の頭脳に、ようやく追っ手達の会話の意味するところが浸透した。
(ボスが……)
 そして、ドロテアも。
 もはや温かくはない女の手を、男は潰しそうなほどに強く握りしめていた。そうすることで、そこから自分の体温が伝わり、流れ込んで、彼女がもう一度自分に喋ってくれると信じているかのように。
 彼は同士を喪い、前方を追っ手に囲まれていた。銃を構える男の、ほんの指先の気紛れに、今の自分の命はゆだねられている。背後には断崖絶壁。その下は波頭も泡立つ荒海だ。
「ご苦労だったな、テロリスト」銃の男は低く呟いた。「だが、ここまでだ」
 ──立ち上がって、走れば。
 一発の銃弾をどうにかしてかわし、後から加勢に来た追っ手どもを突き飛ばしてでも突破できれば。突破する前に取り押さえられてしまえば一巻の終わりなのだが、どうせこのまま座り込んでいても一巻の終わりだ。いちか、ばちか。試してみるのも無駄ではなかろう。……が。
(生きて!!)
 この叫びに、自分の身体は止まったのだ。あろうことか。
(生きて……そして、成し遂げて!)
 いざという時には命に代えてもお前を守る、そう決意したのだ、自分は。それなのに自分の身体は止まった。他の何に代えても自分が生き延びなければならないと、一瞬ではあれ思ってしまった。
 引き替えにしたのは、ドロテアの命。
 薄汚い生だ。恥ずべき生だ。
(そんなことは、許されない)
 男は動いた。その動きに、ぴたりと銃口がついてくる。男は構わずに、地面にかがみ込んだ。血の気を失った女の唇に、自分のそれを合わせると、わずかに微笑むことができた。最期に彼女が浮かべた微笑みそのものだった。
 今度こそ、ひとかけらのためらいもなかった。
 男は立ち上がり、唯一、敵に固められていない方向へ走った。途中で大地がなくなったが、そのまま走り続けた。落下する身体、急速に遠ざかる意識の中で、彼は自分の肉声とも心の声ともつかない叫びを聞いていた。
 ドロテア。

  ──そして、季節は十五回巡る。


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