赤茶けた岩砂漠に、赤く燃え立つ毛並みの獣が一頭、立ち尽くしていた。
彼の故郷は、岩山に寄り添うように造られた集落だ。岩山のてっぺんに設置される天文台のほかにはこれと言って何もない、ささやかな集落。彼の帰り着くべき場所であり、いつでも彼を包み込んでくれる場所であり――それが故に弱点でもある、場所。
(なぁ、レッド、コスモキャニオンの人たちに会いたいか?)
くせの強い金髪の青年が、そう言って、魔晄の瞳を彼に向けた。
オイラの表情、そんなに分かりやすいんだろうか。
(……うん)
みんな、帰るべき場所がある。愛する者がある。あまりにも大きな敵を目前に、今一度自分の戦う意味を確認するため、それぞれに散ったのだった。
――でも、オイラは。
(どうした、レッド、お前さっきから身体強張ってねぇか?)
(……コスモキャニオンに寄ることを、私の本能が拒否している)
脳裏によみがえる。ひとりコスモキャニオンを後にして以来、初めての帰省は、あの仲間たちとであった。彼らと一緒に戻るのは、非常に気が進まなかったものだっけ。
(どうして? 行ったことがあるの?)
(……昔、住んでいた。できれば、戻りたくない……)
そんな彼のささやかな抵抗も空しく、数の暴力で押し切られて立ち寄ることになってしまった時、彼は一切余計なことを喋るまいと心に決めた。喋らなければ、ボロは出ないと。
しかし、懐かしいコスモキャンドルの揺らめく炎が目に飛び込んできた瞬間、掛け金が勢いよく弾け飛んだ。四本の足は、彼の意志を超越して、ごつごつした赤い地面
を軽やかに蹴っていた。
(ただいま〜! ナナキ、帰りました〜)
ああバカ、オイラ何言ってるんだ、と気付いた時には遅かった。彼はおそるおそる仲間たちを振り返ろうとして、やめた。コスモキャニオンの岩肌は、こんなにも自分を無防備にする。やわらかなしとねのような故郷。
――その故郷のふもとに、今自分はひとりたたずんでいる。
入ったが最後、出て来られなくなってしまうのではないかという気が、とてもした。臆病なオイラ。自分でも呆れるぐらい子供のナナキ。自分にはコスモキャニオンはやさしすぎて、あたたかすぎて、今入ったら二度と出られなくなってしまうかもしれない。それが、恐かった。
(理由なしでは戦えないだろ? だから、帰ってこなくても……仕方がないよ)
でも、と彼は思う。理由があるのに戦えないのなら、それは腑抜け以外の何物でもないのではなかろうか。腑抜け――そう呼ばわって、ずいぶん長いこと父を軽蔑し続けたものだった。腑抜けは他ならぬ
自分だ。今となれば、そのことは嫌というほど分かっている。
何て言って、入ろう。
何て言って、出て来よう。
(あのね、オイラ、どうしてもみんなに会ってから行きたくて)
(ほんとのところ、ちょっと、シッポがふるえてて)
だから、オイラ――「だから、オイラ」、何だというのだ?
駄目駄目駄目、と彼は朱のたてがみをさわつかせた。弱音吐いてどうするんだ。こんな時ぐらい、強くならなければ。たとえそれがただの強がりでも。オイラ……もとい、「私」だ、わ・た・し――。
「――あれぇ、ナナキ!?」
頭上から声が降ってきた。見上げると、岩山を削ってこしらえた階段の上から、少年が手を振っている。ポポルだった。このポポル少年が片言の頃から、彼らはずっと、転がり回って遊んできたものだった。
ポポルは、彼のたたずむ場所まで駆け降りてくると、軽く息を弾ませながら笑った。
「なんだよ、来てるなら上がってくればいいのに」
「…………」
待って、準備ができてない。心の準備が。
何か言わなければ。私は。私、は、今、か、ら――今、か、ら……ええと?
(あれ、背伸びって、どうやるんだったっけ)
「どしたのさ、ナナキ? 具合悪いの?」
「……いや」
ああ、そうだった。思い出した。言葉はできる限り少なく、短く。人なつこい印象を与える語尾は使わない。困った時でも、これで何とか切り抜けられる筈だった。
「……長老は?」
「長老って、どの長老さま? ハーゴさま、それともブーガさま?」
「いや、そうではなくて……」
その人をあらわす使い慣れた呼称に替わるものを、彼は探した。それは思いのほか難しく、不自然な長さの沈黙が流れる。
「……最長老」
「さいちょーろー?」
彼の言葉を鸚鵡返しに繰り返して、ポポルは首をかしげる。謎解きでもするかのように眉間にしわを寄せ、ややあって、あぁ、と呟いた。
「それ、もしかして、ブーゲンハーゲンさま?」
こくり、と頷くと、髪飾りの羽根が心許なさげに揺れた。ポポルは呆れたような声を上げた。
「なぁんだ、それならそうと……。『じっちゃん』って言ってくんなきゃ分かんないよ」
彼は早くも後悔し始めていた。ここに足を踏み入れたこと。ポポルと言葉を交わしたこと。その話の中にブーゲンハーゲンを出してしまったこと。全て。
「ブーゲンハーゲンさまなら、いつもの部屋だと思うよ。さっきからちょっと音がしてるから、多分プラネタリウム動かしてるんじゃないかなぁ」
ブーゲンハーゲンに触れてしまったのは、ひょっとしたら得策ではなかったかもしれなかった。だが今更、どうしようもない。
「……そうか、では、行ってみる」
「ナナキ、本当にどうしたの? 大丈夫?」
気掛かりそうに眉を寄せて、ポポルが彼の目をのぞき込んでくる。少し前。そう、ほんの十年と少し前。ポポルは四つん這いのオイラと大して変わらない目線の高さだったのに。今、ポポルはオイラと目線を合わせるためにかがみ込んでいる。人間なんてみんなそうだ。あっという間に大きくなって、あっという間に大人になって、あっという間にしわくちゃになって――あっという間に、いなくなる。
だから二本脚はきらいだ。これだから二本脚は。
彼は大きなカーブを描く岩肌の階段を駆け昇っていく。跳ねるたてがみを見送りながら、ポポルは呟いた。
「……変なナナキ」
***
プラネタリウムの中に大粒の輝石が浮かぶさまは、彼の背筋を不思議にぴんとさせる。
これを巡って、世界に幾度争いが起こったことだろうか。生命の大河。星の纏いし羽衣。ふるさとの人間たちを守りきれるほど強くなりたくて、ひとり広野に飛び出したその時には、星の生命が自分の肩にかかってこようなどとは、想像だにしなかった。さまざまな人間の争いを見た。さまざまな人間の哀しみを、見た。
「おお、ナナキか」
「……明日には、出発することになる」
声色も硬くして、彼は告げた。ブーゲンハーゲンはプラネタリウムをいじる手を止め、ふわりふわりと彼の正面
にやって来た。昔から変わらない。この世界の哀しみも、濁りも、数えきれぬほど焼き付けて来ながら、それでもなお真実のみを捉えて離さない、眼差し。
「私――はこれから、彼らと、例の二本脚の怪物を倒しに行くので、それを一言伝えておこうと思った」
ホーホーホウ、と呟いて、老爺はうつむく赤き魔獣の周りをゆっくりと一周した。
「ナナキよ……お前」
「――すまないが、この喋り方でいたいのだ」
言葉遣いと表情があまりにもちぐはぐなのは、自分でもよく分かっていた。それでも、続けなければならない。薄紗一枚ほどの防波堤を決壊させてはならない。最後まで。
みんな、戦う意味を確認するためにそれぞれの場所へ戻ったのだ。逃げ帰ったのではないのだ。泣きべそかきに帰ったのではないのだ。分かりすぎるほどそれは分かっている。だから。
「私はもう――前のような子供ではない。ここに帰ってきては、弱音を吐いて甘えるような、子供では」
「恐いか、ナナキ」
「恐いなんて、そんなことあるもんか!!」
全然、ちっとも、これっぽっちも恐くない。恐くない。恐くない。シッポがさっきからピンピン震えてるけど、たてがみが抜けそうに逆立ってるけど、聞こえないはずの声が尾蹄骨に響いて背筋を駆け上がるようだけど、でもこれは恐いんじゃない。見くびらないで欲しい。
「あんなわけの分からない怪物、オイラがガオーって吠えれば」
吠えれば、どうなると?
「……ささっと行って、ちょちょいってやっつけて、すぐ帰ってくるんだ! オイラ、死なないもん! 絶対――きっと……多分」
切れた。ぷつんと音がした。
もうゲンカイ。
「死なないよ、死にたくないよぉ、じっちゃん!!」
ブーゲンハーゲンの深い眼差しを避けるように、彼は背を向けて壁際にうずくまった。恥ずかしい。クールで落ち着き払ったレッドの口調は宇宙の彼方に吹っ飛んでしまった。幼稚な泣き言などを言ってしまった。戦う意味を確認するはずだったのに。誰ひとり弱音なんか吐かないのに。恥ずかしい。
固く丸まった、自分の曾孫の子供ほどの魔獣の背中を見つめ、ブーゲンハーゲンは頷いた。
「それでいい、ナナキ。それが今のお前じゃ」
その通りだ、と思った。しかし今の彼には痛すぎた。
「……オイラ、腑抜けってことなんだね、やっぱり」
「ホーホーホウ……最初から腑抜けでない者などおりゃせんよ。お前はたった四十八年しか生きとらん。肝が据わるようになるのも、泉のように溢れる知恵を身につけるのも、まだまだこれからじゃ。その目に、耳に、肌に、世界を焼き付けてゆけ。すべては、そこからじゃよ。――見るがいい」
虚空に投影される大宇宙のかたち。その中にたったひとつ、青く輝く惑星の隣に、ブーゲンハーゲンはふわりと浮かんだ。言われるまま、ゆるゆると緩慢に振り返る彼の目に、生命の奔流が映った。紺碧の宝石を抱きとめる、荘厳な光の帯。
「ライフストリームより生まれ出で、ライフストリームへ還るまでに、すべての生き物は少しずつそのものになっていくのじゃ。この世は、お前がお前になるところなのじゃよ。分かるかの」
オイラが――オイラに。
「焦るな、ナナキ。焦ってはいかん。わしはお前がもはや子供ではないと分かっておる。じゃが、何もかも悟った大人でもないこと、これも確かじゃ。……もっとも、ライフストリームへ還る間際になったとて、腑抜けでない者などそうそうおらんじゃろうがのう」
わしも含めてな、という最後の一言分だけ、ブーゲンハーゲンはほろ苦く笑った。
「……じっちゃんは腑抜けじゃないと思う」
「そう見えるのは、長く生きてきたからじゃろうな」
行儀のよい座り方でプラネタリウムを見上げる彼と同じ目線の高さまで、老爺は降りてきた。
「年をとると、人間はどうもハッタリが巧みになる。お前の種族は知らんがの。まあ、あまり褒められたことではないな。分からぬ
ものを分かると言ってみたり、恐いのにもかかわらず恐くないと大見栄切ったりするのじゃ。そして、言った通
りのように、相手に思わせてしまうことができるようになる。……さしずめわしなどは、ハッタリの達人、とでも言おうかの」
「ハッタリでもいいから……強くなりたい。オイラ、早く、強い大人になりたい」
みんなの前で、オイラは平気だと言えたなら。心の奥で暴れ回る恐怖感を、せめて押し隠せるようになりたい。
「表面のみを取り繕うことに、さほどの意味はありゃせんよ。全く無意味だとも言わんがな。自分の正直な気持ちは、いつでも、無意識の中の意識がよく知っておる。自分を騙し通
すことなど、誰にもできはせんのじゃ」
「じゃあ……じゃあ、父さんは?」
すがるような目で、ブーゲンハーゲンを見つめる。
「戦士セトがたったひとりで戦ったのも、ハッタリだったの? ほんとは恐くて恐くて、すぐにでも逃げ出したかったの?」
「ふむ……」
一声唸り、ブーゲンハーゲンは首をかしげた。重々しい沈黙が流れる。悲壮なまでに真剣な眼差しを受けながらも、ブーゲンハーゲンはしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。
「……分からん」
「分からんってじっちゃん……」
前脚の力が思わず抜けてしまう彼を見やり、ブーゲンハーゲンは子供っぽくも聞こえる口調で抗議した。
「当たり前じゃろ。いくらわしでも、人の心など読めやせんわ」
じっちゃんですら分からない――父さんの心。
父を誤解し、軽蔑していた時も、誤解が解けて父を誇りに思えるようになってからも、彼の願いはずっと同じだった。「腑抜けにだけはなりたくない」――父のようにはなるまいと、長い間思ってきた。そして、父の名に恥じない戦士になりたいと、今の彼は思っている。
しかし、もはやそれだけではなかった。もっといろいろなもののために、彼は強くなりたいと切望している。自分より遥かに大人な、ハイウィンドの仲間たち。悲しみの中にありながら、他人の悲しみを思いやることのできる人々。彼らにつり合う存在でありたい。それから、今はもういない、ハイウィンドのもうひとりの仲間――父セトと同じように、大切なものを守るためにたったひとりで戦いへ赴き、ついに戻ってこなかった、彼女。ちり、と熱い痛みが走った。彼女のことを思うといつも、胸の奥がかすかに焦げつく……。
みんな、どうやって、強くなってゆくんだろう。一体どうやって?
(父さん、教えてよ。オイラに)
彼はわしっ、とブーゲンハーゲンの服の裾をつかんだ。
「……じっちゃん」
視線のみで、ブーゲンハーゲンは返事をした。
「あの扉、もう一回開けられるかな」
「あれは無用の扉じゃ。この間はお前に真実を知らせるため、特別に封印を解いた。あんなことは例外中の例外じゃわい」
「うん、わかってる。……でもそこを何とか」
あそこにオイラの今一番知りたい何かがある。そう思うと、いてもたってもいられなかった。彼の、服の裾を引っぱる力の強さに並々ならぬ
思いを感じ取ったブーゲンハーゲンは、数秒の睨み合いの末、ついに折れた。
「――これが最後じゃ。行って来るがいい」
(うううっ……)
後ろから誰かに尾行られているような錯覚を覚え、彼は何度となく振り返る。
洞窟という地形柄、普通に歩いていてもほとんど立たないはずの足音が奇怪な形状の岩盤に反響して、四方八方から彼の鼓膜に迫ってくる。うっかり声など漏らそうものなら、この世のものとも思えない怪物の呻きほどにまで拡大誇張されて自分のもとへ帰ってきてしまう。
(ギ・ナタタクが消えて、もう化け物も出てこんじゃろうが)
確かに、その通りだった。化け物どころか、虫一匹出てこない。
(あの瘴気が早々に消え失せるとも思えん。油断は禁物じゃぞ)
初めてここに入った時の、ひやりと背筋をなで上げるような不快な冷気はまだ健在で、何も出てこないのがいっそ不自然に思えるほどである。
ある存在に、彼は思いを馳せた。ここを、並み居る敵をねじ伏せながら、恐れもおののきもせずに駆け抜けた戦士がいたという。揺るぐことのない決意を胸に灯して、たったひとりで。
自分の姿は、かの戦士と重なり得るだろうか?
彼はやおら頭を振った。そして走り出す。目指すものは、ただひとつだった。
(知りたいことがたくさんあるんだよ、オイラ)
背伸びはいけないと言われた。大人の仮面を被ってみたところで何の意味もないのだと痛感した。しかし、ありのままの自分をさらけ出したとて、彼は大人ではあり得なかった。そう、結局のところは子供なのだ。物事を知らない子供。教えてもらわなければ、先に進めない。生きることの練習問題に、四苦八苦している身なのだった。
――切り立った崖の頂上で、冴え渡る青い月の光に讚えられて、それはあった。
何に呼ばれてここまで来ましたか。愛するコスモキャニオンの悲鳴にですか。その身体に脈々と受け継がれる一族の意思にですか。星の生命の源にですか。戦乱も共存も、あるがままを無表情に見下ろす月明かりにですか。血飛沫と屍を渇望するギ族の雄叫びにですか。それらの呼びかけに答えることが使命だと思いましたか。たったひとりで向かうことを選んだのは何故ですか。…………。
月の光が降り注いでは霧散するように、さまざまな言葉が湧き上がっては弾けて消える。その中で生き残った、たったひとつの言葉が、知らず彼の口をついて出た。
「――恐くは、なかったの……?」
囁きはこだまとなって彼の耳に届き、届いた言葉のあまりの恥ずかしさに彼は身震いした。
場違いだ。猛烈にそう思った。戦神の石像の隣で言うべき言葉ではあり得なかった。像は何も答えない。ただひたすらに前を見据えるのみ――。
彼は力なく父に背を向けた。この谷の密やかな勇者のたたずまいから、結局自分は何ひとつ学べなかった。答えのかけらも見出せないまま、夜更けが近づいてくる。明けやらぬ
夜はない。それまでにオイラは、一体どうすればいいというのだろう?
帰り道が、果てしなく長かった。
待ち構えていたように、ブーゲンハーゲンは戻ってきた彼を扉のこちら側へ迎え入れた。
「……ただいま」
敬愛する父に会いに行った後とはとても思えない、伏し目がちな彼の様子に何事かを感じ取ったか、ブーゲンハーゲンは穏やかに呼びかけた。
「ナナキ、焚き火にでもあたりに行くかの」
それは問い掛けに似た、しかし問い掛けなどではなかった。彼の返事を待たず、老爺は階下へ向かう。とぼとぼとついて行くより他に術のない彼。ブーゲンハーゲンの心が、計り知れなかった。それは全くいつものことだが。