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種と果実(前)




 全校生徒を飲み込んでなお、がらんとした気配をたもつ体育館に、自分の名前が響き渡る。
『──三橋、廉』
 ぐ、と喉に力を入れる。息を吸い込む。
「……はい」
 精一杯しぼり出した声は、やっぱり、涙でよじれてしまったけれど。
(あのときの涙とは、違うんだ)
 はっきりと、そう思える。


***


 季節外れの雪が舞い散って、まるで色を失った桜のようだった。
 昇降口のそちこちで、別れを惜しむ生徒たちの吐く息が白くあがり、すぐにかき消え、またわき上がる。それらを後ろに見ながら、三橋廉はそっと輪を抜け出した。
 彼を呼び止めるものは、誰もない。気配を殺すのがずいぶんうまくなった。靴音を忍ばせることがいつの間にかくせになってしまった足。もっとも、仮に大きな音を立てていたとしても、結果はそう変わりはしなかっただろう。ただ、刺すような視線がつかの間向けられてくるだけで。
(……あの輪の中に、オレは入れない)
 静かな、できる限り穏やかな気持ちで、そう心につぶやく。それは悲嘆ではなく事実。当然にそうあるべき結果におさまっただけのこと。誰をも恨む必要はない。悲しむ資格も──ない。
 そう思いをめぐらせると、とたんに制御不可能な熱いかたまりが三橋の喉を逆流する。だめだ、泣いちゃいけない。しかし、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、彼の目頭は熱を帯びてゆく。たまらず、彼はうつむいた。こらえきれずにあふれた涙が、積もりはじめている雪の地面をわずかに溶かして消えた。
 ──こんなに醜いやつでも、涙だけは透明なんだな。
 だから、これ以上泣くのは、ほとんどみんなへの欺きだ。三橋はトレンチコートの袖で乱暴に涙をぬぐった。
 いつの間にか、グラウンドの前までたどり着いていた。フェンス越しに、うっすらと白く染まったダイヤモンドが見える。試合中における彼の定位置は、その中央。しかし、毎日の練習となると、ここからはほとんど見えないグラウンドの隅のほうにいるのが常だった。そんな彼を、チームメイトもあからさまに遠巻きにしていた。目に見えない壁が、彼らを隔てていた……。
 もう、終わりにしなければ。
 たったそれだけのことが、こんなにも痛い。この涙はきっと、マウンドへの未練だ。あの場所に立つことを、あの薄汚れたマウンドにしがみつくことを、あきらめきれない自分がいる。あれだけ独占し続けてきたのに、まだ、投げ足りない。
 ……最低だ。
(そろそろ、行かなきゃ)
 式が終わったあと、ここで“サヨナラ練習”をおこなうのだと聞いていた。卒業証書を携えたまま、それぞれの思い出話に花を咲かせながら、三年生部員がじきにここへやってくる。だから、早く、行かなきゃ。
「──三橋」
 突然背後からかかった声に、肩が跳ね上がった。
 雪の中にくっきりと浮き上がる真っ黒な癖毛。その髪と同じ色のマフラーを首に巻いた、細身の少年。どこか猫を思わせるつり気味の目を、じっと三橋に据えている──叶修悟。ほんとうの、エース。
 叶の視線から逃げるように、三橋はうつむいた。
「……やっぱ、ここにいたか」
 かけられた声は、少し息が上がっている様子だった。走ってきたのだろうか。彼ならば、今ごろたくさんの友達と後輩に囲まれていても何の不思議もないけれど。
「……かの……くん、向こう……」
「関係ねぇよ」
 吐き捨てるような一言。今彼がどんな表情を浮かべているのか、確かめる勇気はなかった。
「お前歩いてるの見たから、テキトーに言って抜けてきた」
「……ごめ……」
「謝んなよ」
「…………」
 三橋は唇を引きむすんだ。そうだ、謝ったからといってどうなるわけでもない。
 ──許される道理など、ないんだから。
 ざわめきを遠くに聞きながら、ふたりはしばらく押し黙っていた。やがて、叶のほうが、白いため息をひとつ落とす。
「オレたち、一緒にここの門くぐったよな」
「…………」
「入学式んときさ。入部届もふたりで出したよな」
 叶の声はどこまでも淡々としていて、なにかひどく遠いもののように聞こえる。
「──お前、ホントに高等部行かないのかよ」
 それは、質問ではなく確認だった。
「……うん」
「……埼玉でも、野球やるんだろ」
 返す言葉が見つからない。なぜなら、自分は、やめなければならなかったから。間違った野球をこれ以上続けてはいけないと思った。だから、三星を出た。
 ──そのせいで、涙がまたこみ上げてくるのだとしても。
「やめんなよ。絶対、野球部入れよ」
 たたみかける叶の声は、だんだんに熱をはらんでゆく。
「お前が今までやってたのは……違うんだよ。今やめちゃ、ダメだから!」
 どうして、そんなことを言うんだろう。しゅう……叶君は? どうして、そんな、決心を揺らがせるようなことを? あまりに遅すぎた、決心。何度となく浴びせられてきた言葉。そのとおりだと、ずっと思い続けてきた言葉。
 オレがいるから、みんな野球楽しくなかった。だから、終わりにするんだ。
 ……そう、必死で自分に言い聞かせているのに。
(やり直せって、ことなのかな)
 オレが今までやってたのは、違うから。実力ないのにマウンドに登り続けるなんて、間違っていたから。間違ったままで終わりにするのはいけない。そのために、高校でも野球部に入るんだと? ちゃんとした野球をするために。
 ……それが、叶君の願いだというのなら。
(高校でも……野球を)
 登ることのかなわないマウンドというものを、思い知るために。
 修ちゃん、という慣れ親しんだ呼び名を捨てたのは自分のほうだ。でも、ちょっと気を許すといまだに“か”でなく“し”のかたちに口が動いてしまう。それに、だいたい、“叶君”に変えてからも、自分は相変わらずこの人に甘えている。この人の、底なしの善意に。
 三年間裏切り続けた人が、自分にくれたチャンス。
 でも、どんな顔をして受け取ればいいのか、まったく見当もつかない……。


***


 ──まさかそれから二ヶ月足らずで、対戦相手として再会するなんて思わなかった。
 チームメイトに初めてかけてもらった「ナイピ!」という言葉。オレが打たれたせいで逆転されたのに、「一緒にベンチ帰ろうぜ」と引っぱってくれた腕。「戻ってこいよ」というかつてのチームメイトの言葉には、うなずかなかったのだけれど。
 あれから、彼はたくさんのものを知っていった。
 三年という時間は、長かったのだろうか、短かったのだろうか。一瞬のような毎日を、数えきれないほどに積み重ねていって、このまま終わらなければいいとさえ思えるようになったときには、既にひとつ下の後輩の中から主将が選ばれるような時期にさしかかっていた。
『──右は、本校普通科の課程を修了したことを証する』
 マイクに乗って、校長の声が体育館のすみずみまで響き渡る。壇上に登った生徒は一礼して、差し出された卒業証書を受け取った。あれと同じものを、教室に戻れば自分も担任から手渡されるはずだ。
(ここで……よかったのかな、修ちゃん?)
 自分がたどり着いた場所は、三年前には想像もつかないところだった。
 あの頃のこと、こうやってちゃんと思い返せるよ。少しの痛みも感じないなんて言ったら、嘘になるけれど。ときどき夢に見たりもするけど。でも、今流れてるのは、あの頃と同じ涙じゃない。
 ここで教えてもらったことを、全部残さず書き連ねていったら、いったいあの卒業証書何十枚ぶんになるんだろう。
 笑うこと、顔を上げること。ひとりではないということ。彼らが口にする“オレたち”という言葉の中に、当たり前に自分が含まれているということ。こんな心強さが“ふつう”なんだということ……。
 毎日を駆け抜けながら、ひとつひとつ、覚えていった。
 ──そして、もうひとつ、大きなこと。
 マウンドを譲りたくない自分のままでいいんだと、教えてもらった。
(これで、よかったんだよね?)
 ……うれしさが、熱いかたまりとなって胸の奥からこみ上げてくる。




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