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種と果実(後)




「三橋ーぃ、泣きすぎー!!」
 昇降口付近は、巣立つ生徒と見送る生徒でごった返している。人混みに押されて既にふらつきかけていた三橋は、後ろから突然飛びついてきた田島の重さにとっさに耐えきれず、ふたりまとめて地面に突っ伏した。
「──っとう、危ねェな。踏んづけるとこだったぜ」
「往来でタックルかますな! 通行のジャマだろーがっ!」
「下級生へのシメシってものを考えようよ、今日ぐらい?」
 たしなめながら現れたのは、西浦高校硬式野球部の主将・副主将三人組。思い思いに眉間にしわを寄せたり、こめかみに手を当てたりしている彼らをまったく顧みず、田島は陽気に手を振る。
「よーす! 卒業おめでとー、オレたち!」
「あー、おめでとーおめでとー。お前はいつでもおめでたいけどな……」
「え、なんだよ花井。お前めでたくねーの?」
「……お、おめ……っ!」
 顔を赤らめて、彼なりに力一杯の同意を示す三橋。西浦名物・天然コンビの視線がじっと注がれるに至って、花井はついに折れた。
「──……そう、だな」
 かりかりと坊主頭をかきながら微妙にそらした目が、少しだけ赤くなっているのに三橋は気づいた。
 彼らを中心に、いつのまにか全員が集まっている。言うなら、今だ。いつか、心の底から言えたらと思っていた、大事な大事なひとことを。
 あのときは背中に聞くことしかできなかった、同級生の輪の中。今は当たり前のように自分のスペースが用意されている。もう、自分の居場所があるのかどうか恐れることなしに、この人たちの中に入ることができるのだと、信じる気持ちをくれた。
 ──今日も、明日も、その次の日も。
 ひくひくとけいれんする喉を、三橋は叱りつける。言わなきゃ。六年分の思いを込めて。
「……みっ……な……っ」
 また明日、で別れられる毎日を、くれた人たちに。
「こ、こ……でっ、会えて……よかっ……」
 やっとのことで言い終えると、三橋はついに、コートの袖で顔を覆ってしまった。ゆっくりと、沈黙が彼らの上に降りそそぐ。照れくさそうに視線をそらしながら、それぞれが思いのままに息を呑んだり、苦笑混じりのため息を漏らしたりしている。
「……えーっ、ちょっと……もうさっそく決めゼリフだし……」
「そのセリフ、確かお前、最後に言おうとしてたんじゃなかったか? なぁ、花井?」
「なんで知ってんだよ! そしてなんで言うんだよ!?」
 見たこともないぐらいに赤面して、花井が抗議する。
「ごっ、ごめ……」
「あーあーあー、謝るな、頼むから謝るな! 別に三橋責めてねーし!」
「そーそー。それに花井には、主将として大事なヒトシゴトがちゃんと残ってるしな」
 泉の妙に冷静な指摘に、西浦野球部の初代主将は凍りついた。
「……えっ」
「おー、そうだそうだ。ここは主将としての気合いの見せ所だな」
 逃走経路を奪うように、阿部がすかさず同意する。
「マジかよ、マジでやんのかよ! あれをか? ここでか!?」
「愛してるわ、しゅ・しょ・おっ!」
「スキよ、スキよ、キャプテ〜ン」
「だーもー、テメーら……」
 みんな一様に、われらが主将へ熱い視線を注ぐ。彼の、頼み込まれると決して嫌とは言えない性格を、この場の誰もが知り抜いていた。
 輪になって、手を重ね合わせる。息を深く吸い込む。

「──三年間ありがとう、これからもよろしくな!」

「にしうら─────ぜっっ!」
「おお!!」

 なぜか野球部以外の面々の声まで取り込んで、かけ声は巨大にふくれあがっていた。
(……これからも、って)
 三橋の胸に、すとん、と落ちた。


***


 三橋の手を引っぱる田島を先頭に、彼らはグラウンドへと駆けてゆく。
 西浦高校硬式野球部の初代部員、総勢十名。それから、一日遅れで入部してきた初代マネージャー、妙な知識を誇る責任教師、豪腕の女性監督、彼女の飼う雌犬一匹。はじめは、ほんとうにそれだけだった。
 甲子園に行ける、という言葉が、なにかの冗談にしか思えなかった、あの春の日……。
 グラウンドの入り口で、彼らは立ち止まった。
「ちわす!」
 ひとつに重なる声。敬礼。そして全力疾走。誰もが、はやる気持ちを抑えきれずにいた。
 卒業証書をベンチに置き、コートを脱ぎ捨てて、器具庫へ走る。卒業式のあと、三年生だけでしばらくグラウンドを使わせてもらえる手筈になっているのだった。
 グラブの中にマイボールを抱き込んで、三橋はゆっくりと視線をめぐらせた。防具をつけ終えた阿部が、軽く手招きをする。まずは、肩ならしだ。少し離れたところでは、正バッテリーに挑む順番をめぐって、壮絶なジャンケン大会が巻き起こっている。
 あたりまえのように繰り広げられる、奇跡のような光景。
(ここへ、たどり着いた)
(ここがきっと、目指してた場所)
 すべてを終わらせるつもりで入った高校の、見るだけだからとのぞき込んだ野球部から、思えばすべてが始まった。
 オレなんか誰にも相手にしてもらえないと、しゃがみ込んでうつむいていたとき、その背中には、みんなの目がいつでも注がれていた。
 ずいぶん遅くなっちゃったけど、やっと気づくことができたよ。
 ──それに、ひょっとしたら。
 三橋は思いはじめている。それは、今まで想像したこともなかったことなのだけれど……ひょっとして、オレの言葉や、笑顔を、待っていて喜んでくれる人が、この世界にはそんなに少なくはないのかもしれない、なんて。
 オレなんか、と丸めた背中で、ほんとうは誰かの手を待っていた、この自分のような人が。


「うおっしゃー! オレ一番乗り!!」
 ひときわ響く田島の声。どうやら、三打席勝負の順番は無事に決まったようだ。西浦の誇れる四番打者は、心の底から楽しそうに素振りをしている。残りのメンバーはそれぞれの守備位置に。三橋と阿部はうなずき合い、それぞれマウンドとホームベースに分かれた。
 ──最後の、プレイボール。


 最近、考えているひとつのイメージがある。種と、果実。
 ひとつの種からおおきな実がなって、その実が次の種を地面に落として、その種からまた新しい芽が出て、花が咲き、実をつける……そんな、循環。
 きっと、すべてのものは、なにかの終わりであって、始まりなんだと。
 ギシギシ荘に別れを告げた。新しく入った学校でひとりぼっちだった。中学三年間、チーム全員を敵に回して投げ続けた。そして──みんなに出会った。
 あのときの苦しみも寂しさも、全部、ここで過ごしてきた三年間につながっていた。
 ……何ひとつ、無駄じゃなかった。
 ここでの三年間は、これから先の未来に、どんなふうにつながってゆくんだろう。
 それを楽しみだと思えることが、心の底からうれしいんだよ。
 ほんとうは、伝えたかった言葉はもっとたくさんあった。涙で流れてしまったそれらの言葉を、もしも片っぱしから口にしていったら、どれぐらいの時間がかかるか想像もつかないけれど、みんなは聞いてくれるだろうか。
 ……でも、たぶん、言わなくてもいいのだと思う。
 ごめんなさい、と、何度言っても言い足りないとずっと思ってきた。
 ありがとう、と、何度言っても言い足りないと、今は思っている。
 つまんねぇことにいちいち礼なんか言うなって怒られるかもしれないし、実際怒られたこともあったけれど。でも、“つまらなくない”のだからしかたがない。みんなが“当たり前”と言ういろんなことが、“当たり前”でなかった頃が、確かにあったのだ。
 信じられないぐらいに多くの、幸せな当たり前を、教えてもらった。
 けれど、自分はやっぱり忘れられないだろう。ひとりなのが当たり前だと思っていた中学の頃を。そして、繰り返し思い出すだろう。みんなが惜しげもなく差し出してくれる、それまで見たこともなかった“当たり前”を、どんなふうに受け取ったらいいのか分からず途方に暮れていた、高校生になったばかりの頃を。
 当たり前のことは、実は、当たり前じゃないんだと思う。
 当たり前の幸せが当たり前にそこにあることを、たぶん、奇跡って呼ぶんだ。


 阿部の指が地面すれすれの位置で幾度か動いた。三橋はうなずいた。バッターボックスには、気合い十分の田島がいる。
 ……サインをもらうのは、今でも、とてもうれしい。
 こんなこと言ったら、また阿部君に怒られちゃいそうだけど。


 真っ赤に実った果実から、次の種を、いつかめぐり会う未来の自分へ投げ込むんだ。
(全力投球のまっすぐを、ど真ん中に)
 おおきく、振りかぶって。


(...Written at 2006.03.07) 



(BGM:『Time will tell』篠原美也子)
 ……第30話(06年4月号)をベースにして、こんなものが出来上がってしまうオノレの妄想力に、我ながらあきれてしまう今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか(爆)
 今回の話にありました、「こんなにうれしいのが ふつうなのか…」「野球やっててよかった 修ちゃんありがとう」という三橋のモノローグが、ちょっと心臓を直撃しまして……(涙)ああ、この子は卒業のときにきっといろんなこと思い返すんだろうなぁとちょっくら想像してみたりしたが最後、「ちょっくら」では到底おさまらないぐらいのビッグウェーブが私の中に巻き起こってしまったので、鮮度を失わないうちに必死に書きつけてみました。

 三年時の三橋たち、ということで、どんなところが変わっていて、どんなところが変わっていないのか、まったく未知の領域だったんですけど……とりあえず、呼び名はみんな現在のままで書いてます。あと、三橋が泣き虫なのも言葉っ足らずなのも、そのまんまです。『ネバーエンディング・ストーリー』でバスチアンが、最後まで勉強できなくてケンカも弱くて、でも想像力だけは人一倍、そのままの彼でよかったように、三橋も大枠は今のままでいいんじゃないかなぁと思ったので。
 三橋については、ほかにも、「いちいち“当たり前”のことに感激する」「サインもらえるのがいつまでもうれしい」などなど、自分的こだわりポイントを詰め込んでます(;^_^A これ、もうそうそう変わらないと思うんですよね……記憶がなくなっちゃわない限り。でも、卑屈になることなしに、当たり前のことに喜びを感じることができるのなら、それはたぶん、苦しみ抜いた人にだけ与えられる特権みたいなもんだと思うのです。
 『おお振り』が最終回を迎えるときには、たぶんこれは大嘘になってるんでしょうが(冷汗)私の頭の中ではバッチリひぐちさんの絵で動いちゃってます。ああ、おお振りの最終回って見たいような見たくないようなだけど、もし来るなら、卒業の日までみっちりやってほしいなぁ!

 あと、すっげえ余談なんですけど、この話をもしお気に召してくださった方がいらっしゃいましたら、ぜひとも篠原美也子さんのアルバム『種と果実』に収録されてます「Time will tell」をお聞きになってみてくださいまし!



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