あのとき、正直、なんなんだコイツって思った。
そんで、その次に、なんだそれならオレ安心じゃんって思った。
誰にもマウンド譲りたくないらしい超・意地っ張りエースと、できればマウンドなんか登らずにすませたいほとんどシロートピッチャー。利害関係、ぴったしじゃん、オレたち。
──それなら、この心んなかのモヤモヤはいったい何だろう。
***
九回ウラ、ノーアウト。
打順は一回のときとおんなじ、一番から。確かオレらと同じ一年生だ。桐青の一年スタメン。そんで、めちゃくちゃ足が速いっていう。
オレはバッターボックスにいるその一年をチラチラ見る。足速いんなら、一塁来ればまちがいなく二塁へ走ってくよな、気持ちとしては。こっちの気持ち的には、当然この先へ進めたくはないんだけど。
マウンドの上で、三橋がかるく肩を上下させてる。一生懸命見せないようにしてるんだろうけど、もう隠しきれないぐらい消耗してるってのがこっからでもわかる。普段からぎこちない、硬い表情なんだけど、その普段とも比べ物になんないほど硬い横顔だ。
……ふっと、中学んときのことが頭に浮かんだ。
こんな状況なのにな。目の前の試合に意識はくぎ付けになったまま、頭のはじっこのほうで勝手にあの試合のときのことが再生されてく。
……オレが、マウンドに登った試合。
勝ったんだったか負けたんだったかもよく覚えてない、覚えてることはといえばやたら緊張したってことぐらい。いや、緊張したなんて言葉じゃ足りないな。この世界で自分がたったひとりになったみたいな感じ。内野も、外野も、観客も、キャッチャーの存在さえ頭から消し飛んで。
あとアウトひとつ、あとストライクひとつ……そんなシーンばっかり選んだようによみがえる記憶。
もう三年にもなったら、ファースト専門でマウンドに登ることはなくなったけど、ホントに心からホッとしたんだ。
たとえお金積まれたって、あの場所に登りたいなんてオレは思えないから。
──最初、ここの野球部に入ったときから、何となくヤバいなぁって思ってはいたんだ。
今年から硬式になったっていう、できたてほやほやの野球部。先輩はいなくて、部員はオレたち一年だけで、たった十人、しかもそのうち一人は全然未経験者なんだって。
どう考えたって、ギリギリじゃん、人数。
ポジションそろってるんだし、九人いれば野球はできるけど、替えがいない。でも替えって絶対必要だから、ひとり二カ所以上のポジションやんなきゃいけないのは確実で。
オレ、またやらされんのかなぁって思った。
だからポジションはってカントクに訊かれたときに、ファーストですとしか答えなかったんだけど、左利きなのは隠し通せないし。中学んときも、左利きだからって理由でムリムリやらされたんだ。
今度は、いつまで逃げ回れるかなぁってビクビクしてた。
そしたら、投手だって名乗るヤツがやってきた。自分のことダメピーだって罵って、オレのせいで負けっぱなしだったんだって言って泣いて、それとおんなじ口で、三年間マウンド譲らなかったんだって言った。エース張り続けてきたようにはとうてい見えないキョドリっぷりで、ほとんど聞き取れないぐらいのちっちゃい声で、ここでエースに、ってつぶやいたヤツ。
それが、三橋だった。
阿部はなんかあのときいろいろ言ってたけど、オレははっきり言って「なんなんだコイツ」だった。だって、負けっぱなしなのに、自分で自分のことダメなヤツだって思ってるのに投げ続けてきたなんて、どんな神経だよって思った。それに、高校生にもなってあんなに泣くヤツも初めて見たし、だいたいチームメイトにメーワクかけ続けてきたっていうんなら、お前が泣くのはナシだろって。
でも、こういうヤツがいるなら、オレは安心じゃんって思った。
ここまでマウンドに登るってことに強欲なヤツがいるんなら、オレなんかの出る幕はないよな。ダメピーなんだっていうから、負けっぱなしになっちゃうのかもしれないけど、オレが投げたからって勝てるとも限らないし、それ試してみる気もしないし。
それにしたって、落ち着いて考えれば替えの投手がいないなんてことはあっちゃいけないんだから、あのやたら押しの強いカントクにいつか必ず嗅ぎつけられるに決まってたんだけどさ。
──あのときは、そう思っとくことにして知らんぷりを決め込んでたんだ。
***
三橋の球、だんだん打たれ出してる。カラダの限界なんてもうとっくに超えてるんだろうし、向こうだって“まっすぐ”攻略するつもりできてるんだろう。八回のときの打者もそうだったけど、今の一番もあからさまに観察してるみたい。
三橋の球は決して速くなんかないけど、なんかすごい強い、意志? そういうのがある。と思う。もちろんコントロールだってありえないぐらいすごいんだけど、単にうまく的に当てることができるってのとちょっと違うような気がする。
もともと速くない球速が、ますます落ちてきた。さっきからなにげに足下も危うくて、何度も転びそうになってる。
今、三橋は、その“なんかすごい強い意志”だけで投げてるんだと思う。
阿部とちょっと長いやりとりがあって、三橋はうなずいた。振りかぶって、投げて──ボールは阿部のミットに届く前に、一番の構えるバットに当たった。ピッチャーゴロ。駆け出した三橋の足が、ぬかるみにとられてズルッとすべった。田島が捕ったボールがオレに届くのとほとんど同時ぐらいで、一番がファースト駆け抜けた。
「セーフ!」
一塁コーチャーの叫び声。
「セーフだ!」
一番のヤツが訴えてる。
「セーフ!!!」
審判の声。桐青のスタンドが沸く。
──これで、ノーアウト、ランナー一塁。
目の前に、今ランナーがいる。足の速い一年は、おおきくリードをとって走る気満々だ。
オレはすべって転んだ三橋を見た。うずくまって、地面をぎゅっと握りしめて……でも、立たない。
同じように三橋のこと見てる栄口、巣山と、目が合った。
立ってくれよ、三橋。お前、自分でちゃんと立てただろ? 三星とやったとき……ホームラン打たれて、逆転されて、真っ青になりながら、自力で立ってたじゃんか。
マウンド譲らないって、言ってたじゃんか。あれウソだったのか?
「三橋!!」
うずくまったままの三橋の肩が、びくっと跳ねる。
「投げらんねェなら替わってくれ!!」
──あ。
オレに、言ってるんだ、とわかった。
結局オレが投手経験があるってことはモモカンに見抜かれて、三橋が連投にならないためにとか、つぶれちゃったときのために、三橋の代わりに投げられるように練習することになった。三橋が投げらんないから負ける、なんてことがないように。
でも、今は“そのとき”じゃない。阿部もたぶんそれはわかってる。
阿部はかけてるんだ。三橋のマウンド根性に。だから、今こうやって三橋がすごいオドオド窺うような目でオレのほう見てきてても、オレは本心をオモテに出しちゃいけないんだ。
……できたら投げずにすませたい、なんて。
オレは結局のとこファーストに収まって、マウンドからは逃げ出したわけで。あの場所はいやだ、と率直に思ってたし、今でも思ってる。だって、あそこ、別世界だもん。
知らない人から見れば、おんなじグラウンドの上だろ、単にあそこだけちょこっと盛り上がってるだけだろって思うかも知れないけど、それは違うんだ。
オレは試合中あそこにいたこともあるからわかるけど……あそこは、軽くひとりになれるよ。自分ひとりで戦ってるような気分になっちゃう。それはもちろん間違いなんだけど、だってあそこから自分が投げた球が、キャッチのミットに入るか内野に転がるかバックネット近くまでかっ飛んでくかって、大きな問題じゃん。っていうか、その球のゆくえをみんなして追っかけてくわけじゃん。自分が投げるってことがすべてだって……試合のゆくえ全部自分にかかってるんだって、まるで味方八人全員背中にかばって戦ってるんだって、そんな気分になれちゃう。
オレは、その気分がイヤでイヤでたまんなくて、逃げ出しちゃったんだけど。
うん。だから、ピッチャーって人はすごいって素直に思う。自分から選んであそこに立ってるってだけで、すごいよ。
実際みんなで戦ってるんだし、誰が一番責任重大かなんて決められるもんじゃない。でも、ピッチっていうのはみんな、あのプレッシャーを背負って投げてるんだって、オレにはわかるから。それだけで、もうじゅうぶん、オレたちかばわれてるんだなって思うから。
……じゃあ、その球が打たれたときは、今度はオレたちがかばう番だろ?
ねえ、三橋、わかるかなぁ……わかんないのかな。オレたちはさ、いつもいつもマウンドの上のお前に、すっごいかばってもらってるから。その逆だって、あって当たり前じゃん。
打たれたら、捕ってやるから。
点取られたら、取り返してやるから。
いつもそううまくは行かないかもしんないけど、そういう気持ちだけは確実にあるから。でもって……もちろん、イヤだけど、悔しいけど、もし負けたとしたって、それお前のせいだなんて誰も言わないし思わないから。
ひとりじゃないって、きっとそういうことなんだよ。
それって、全然、特別なことじゃないんだよ。
***
三橋、さっき、ずっとうずくまりっぱなしで自力で立てなくて、阿部がハッパかけてやっと立ち上がっただろ? もちろんそんだけ消耗してるってことなんだろうけど……実は、オレそれってちょっと“いいコト”なんじゃないかなって気がする。
三星と試合したとき、逆点ホームラン打たれてへたり込んでたけど、三橋はひとりで立ち上がった。あんとき、確かにすげぇって思ったよ。この根性ってどっから出てくるんだって。
……でも、さ。それって、ずっとそうやってやってくしかなかったってことなんだもんな。
ナイピって言われて、打たせてけって声かけられて、ピンチのときには内野みんなマウンドに集まる、そんな当たり前のことにあんなに驚くんだもんな。そういうの、今までずっとなかったんだな。そんな中で、ひとりで立ち上がって投げ続けるしかなかったんだよな。
だとしたら、あんな強さって、なんか寂しいよ。
三星とやったときはまだみんなチームになりきれてなくて、うまくフォローとかできなかったけど、そんな中で三橋は、それが当たり前みたいな感じでひとりで持ち直した。
あのときはそんないろいろ考えなかったけど、それって実はすごい悲しいことなんじゃないかな。
だから、さっきのはうれしかったっていうか……うーん、なんて言うのかなぁ、自分ひとりで全部なんとかしなきゃいけないっていう、強迫観念? そういうのがちょっとでも少なくなってきてんのかな、そうだったらいいなぁって思ったんだ。まだ三橋的には、そんなふうにハッキリ考えてるわけじゃないんだろうけど。
正直言って、いまだにわかんないよ。そんなキツい思いして、そんなビクビクした性格になっちゃって、それでも投げ続けるなんてどうしてだよ、なんなんだコイツ、っていまだに思うよ。
──ひょっとして、オレがモヤモヤしてるのは、そこなのかもしれない。
言いがかりだっての百も承知だけど、なんか、挑戦状叩きつけられてるみたいな……どれぐらい覚悟ができてるかテストされてるみたいな。オレどんな目にあっても投げ続けられるよ、沖君は?とかって訊かれてるみたいな、そんな気分にとらわれちゃう。や、そんなこと、絶対ありえないだろうけど。
オレはマウンドから逃げ回ってきたけど、じゃあ今やってるファーストだって、三橋ぐらい根性入れてやってるかって訊かれちゃうと、ちょっとなんにも言えなくなるなぁ。情けないけど。
でも、オレたちはお前をかばわなきゃいけない、んだよな。
うん。だから頑張るよ。お前の気合いにつり合うように、オレも気合い入れなきゃな。
いつもお前が、絶対打たれたくないって思って投げてるの、横から見ててもわかるよ。ボール構えてから投げるまで、びくとも揺るがずにミット見つめてる、あの強い目を、オレ知ってるから。
オレも、一塁から先は絶対走らせないぞって気分になってくる。
こっから先は絶対走らせないって、こっから後ろへはボール抜けさせないって、最悪ホームで絶対刺すって、みんな思ってるんだよ。だってお前、すごい頑張ってるから。
お前がエースな、このチームで勝ちたいって、オレたち揺るぎもなくそう思ってるんだよ。
今はムリかもしれないけど、いつか分かってほしいなぁ。
ツーアウト、バッターは四番。
三橋が全力で投げてくれれば、もうなんにも文句なんかないから。
あとは、オレたちがかばってやるから。
──オレたち、みんな、お前の味方だからさ。
(...Written at 2006.02.26)