西浦一のお祭り男の姿が見えないことに、最初に気づいたのは誰だったか。
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埼玉県立西浦高校、野球部。公式戦への出場回数の少なさにかけては、出場校の中でも群を抜いていると言えるだろう。そんな彼らの、今日の試合結果は、おおかたの予想に反して“白”だった。
対戦相手は、甲子園優勝候補とは行かないまでも、中堅どころという評価ではおさまらないぐらいには強いチーム。当然、こちらはエース・三橋の投入で臨むしかなかった。
まれに見る貧打戦というべきか、投手戦というべきか。スコアボードにはゼロが並び、両チームとも得点の糸口を見出せずにいた。
打線がようやくつながり始めたのは、なんと九回に入ってから。
西浦の三番バッター・阿部が注意深く選球し、フォアボールで進塁。それを、長打力のある五番・花井が受けてセンター深くにクリーンヒットさせ、待ちに待ったホーム生還となった。
ゼロばかりのスコアボードにたったひとつ輝く、“1”の数字。
記者のインタビューがエースと五番に集中するのは、当然のことだった──。
用を済ませ、ハンカチをポケットに押し込みながら出てきた三橋の視界の隅に、それは映った。
トイレの出入り口の陰。壁に背中をもたせかけて、ぼんやりと空を仰いでいる、無敵のチームメイトの姿。
「……あっ。た、たじ……」
田島君、みんなが探してたよ。そう声をかけようとし、とっさに口をつぐむ。
それは確かに、見慣れた天才四番バッターの姿ではあった──が、横顔に浮かぶのがあまりにも彼に似合わぬ表情だったので。
(……ダメだ。声かけちゃ、いけない)
いつも、地面と空の接するあたりをまっすぐに見据えているような眼差し。口許に浮かぶ、自信に満ちた、それでいて無邪気な笑み。
田島と言えば、目を閉じていてもそんな顔が真っ先に浮かぶ。おそらく、チーム全員が。
足元ばかりを見て、唇をぱくぱくさせっぱなしで言いたいことの半分も言い出せない……オレなんかとは、全然違う。田島君は、すごく、つよい。
けれど、今の彼の表情は。
(田島君……落ち込んで、る?)
ありうべからざる事態なのだけれど。
(あの表情、には)
三橋自身、心当たりがある。もちろん、自分の表情など滅多に観察する機会はない。いつでもこの手で触れる近さにあるのに、一番得体の知れない、自分の表情。それでも、おぼろげに思い当たる節がある。たぶん、自分は、けっこう頻繁にああいう顔をしている。
あれは、身の置きどころのない時の表情、だ。
自分の力のなさに嫌気が差し、こんな無力な自分は本来ここにいる資格などないのだと周りの誰が言おうが言うまいが、自分が一番そう思っている。そういう人の表情だ、あれは。
──でも、どうして?
何も見なかったことにしてそっと立ち去ろうと三橋は思った。だが、できなかった。
「よー、みはしー!」
下手な忍び足はすぐに田島に気づかれてしまい、背後からいきなり声をかけられるかっこうになってしまった。とにかくこの場を離れよう、それしか頭になかった三橋は、ひゃあと情けない悲鳴を上げながらしりもちをつく。
「お前なんでそんな恐る恐る歩いてんの? もしかして腹イタ?」
「う、ううん……」
痛いのはむしろ腹ではなくて尻なのだが、とっさにそんなコメントを返せる才能は、三橋にはないのだった。
うめきながら打った尻をさする三橋に、田島は遠慮のない笑い声を浴びせながらも、すぐに駆け寄って手を差し伸べてくる。
「だいじょーぶかぁ?」
「う、ん。平気」
こくこくと首を縦に振る。頬が熱くなっている。
「トホホなやつだよなー、お前。インタビュー無事だったか?」
「う?」
「すげー集まってきてたじゃん、記者。もみくちゃにされて大変なことになってたんじゃねーのかなってさ」
「ううん。大丈夫、だ、よ!」
「そか」
にっかりと口を広げた田島の表情は、もうすっかりいつもの笑顔で。
だから、三橋も、あれは何かの間違いなんだと結論づけようとしたのだ。
──田島の、その呟きを聞くまでは。
「しっかし、あの人だかり! ありゃあ、ちょっとしたヒーローインタビューだったよなー」
「ひ、ひーろー……」
「どうだったよ三橋? ちゃんと胸張ってきたか?」
興奮気味の田島に気圧されるようにのけぞりながら、三橋はさっきの騒動を思い出してしまった。顔が風邪を引いた時みたいに火照っているのに、握りしめたこぶしは氷を触った直後ぐらいに冷たくて。インタビュアーに何を訊かれたかも、それに自分がどう答えたのかも、さっぱりだ。
こうして思い出すだけで、同じ感覚がそっくりそのまま蘇ってくる。三橋は身をすくめた。
「試合では背中の“1”番、ちゃんと縫いつけられてんだからな。強気で行けよな!」
田島に背中を叩かれ、ぱしっと小気味のいい音がする。
「う……ん。が、がんばってみる……」
「そーだぞ。がんばれ、ヒーロー!」
軽い違和感は、その時で。
「た……じま、くん?」
急いで捕まえなければ永遠に見失ってしまいそうな、あいまいな印象のかけらに、三橋は必死で取りつく。
「ヒーロー……は、オレじゃ、ない」
違う。もっと何か、別の言葉。
「三橋ぃ、何まだそんなこと言ってんだよー! 完封したピッチャーが、ヒーローじゃなくてなんなんだよ?」
「あ、の。そうじゃなくて、田島君」
「オレなんか、話になんなかったもんなぁ、今日」
笑いながら田島が言った言葉は、危うく聞き流してしまうぐらいに、一見明るく響いたけれど。その朗らかな声にひそむ溜め息に、下手すれば田島自身も気づいていないのかもしれないけれど。
「……う、ん?」
「四番なんだよなぁ、オレ」
その呟きに、三橋はびくっと身を震わせた。そして、同時に、腑に落ちてしまった。
……あぁ、そうか。
(田島君、今日は一本もヒット打ってない)
『オレはどんな球でも打つよ!』と言い放ち、その言葉どおりのバッティングを披露してくれる西浦の四番にとって、“一試合通して一本も打てなかった”という事実はどれだけのものだろう。
(田島君……落ち込んで、る?)
(──でも、どうして?)
さっきからの、疑問。
どうしてもこうしてもあったものじゃない。なんで気づかなかったんだろう……あれが、ショックでないわけがないのだ。オレのバカ。オレの──無神経! もっと早く思い当たっていなきゃいけなかったのに!
いやむしろ、やっぱりあのとき、さっさと立ち去っていればよかったのかもしれない。気づいていたって、自分に何ができるだろう。なぐさめてあげられるだろうか。──なぐさめる? オレが、田島君を? 田島君や阿部君や栄口君や……みんなが、オレにそうしてくれるように?
……できるのかな、ホントに、そんなことが?
みんな強いし、すぐ泣いたりしないし、言葉が頭の中でぐるぐるすることもないんだろうし、性格だってオレみたいに悪くないから人に好かれるし。なぐさめるっていうのは、そういう人がすることなのじゃないかと思う。
(何にもできないなら、そばになんかいたって邪魔になるだけだよ、オレ……!)
知らず知らず、顔がうつむいてきて、背筋も丸まってしまう。とにかく何かしなければと思う。何か、言わなければ。気ばかり焦って、出てきたのは結局、毒にも薬にもならないような言葉だった。
「……うん。田島君、は、四番だよ?」
「四番って、チームで一番打てるやつがなるもんなんだろ? じゃー、今日のオレ、四番じゃないじゃんな」
どう思うよ三橋?と話を振ってくる田島の顔は、目深にかぶった野球帽に隠れてよく分からない。
でも、これだけは分かる。田島君の言ってるのは──どっかが何か、違うんだ。
頭と同じぐらいにはたらきのゆっくりとした、三橋の口が割り込む間もなく、田島は言葉を継ぐ。目を合わさず。聞き取るのが難しいほどの早口で。
「なんでよ? オレ打てなかったよ。役立たずだったよ? なのに試合勝っちゃったんだぜ。勝ち試合なのに、オレ、今日一本も打てなかったんだぜ。チームの打線盛り上げらんない四番なんて、いる意味ねーじゃん!」
吐き出すだけ吐き出してしまうと、今度はひたすら黙り込んでしまう田島である。
それに対して、もともと口の重い三橋はといえば、ほとんど試験勉強用のプリントの山を目の前にした時ほどに途方に暮れてしまい、田島にかけてやる言葉など何ひとつも思い浮かばないのだった。
途方に暮れたのは──身に覚えがありすぎたから。
ダメピーの自分とスゴイ四番の田島君を一緒にするのは間違ってると、じゅうぶん分かっている。なにしろ『オレが投げ続けたせいで負けどおしだった』投手なのだ、自分は。そもそも土台からして、違うのだ。
それでも──……。
(オレ、ひとりで野球してた。あのころ)
(オレがダメピーだからチームが負けるって思ってた。いいピッチャーになれば、勝てるはずだって信じてきた)
それは、正しかった……のだろうか?
(それって、オレひとりの力で試合の結果が決まっちゃうって思ってたってことで)
ホントはそうじゃなかったんだってことを、少しずつ少しずつオレに教えてくれたのは、西浦のみんな。
田島君たち、みんなが、教えてくれたんだ。
オレの完投なんてだれも望んでなくて、オレが投げれば投げるほどチームの雰囲気が悪くなって、どんなに投げてもチームの“勝ち”に結びつかなくても、オレがあのマウンドに居続けたのは、罪じゃなかったんだろうか。
……分からない。いまだに。
でも。でももし、あの日々があって、それだから今のオレがいるっていうんなら。
田島君が試合中ずっと打てなかったからって、四番目の打席に立つことは、全然、罪なんかじゃないんだ。
なぜって。
なぜって、それは……
「オレ……オレ、ひとりじゃないから!」
──“野球”が、したかった。ずっと。
「へっ?」
あきらかに意味が通じていないのだろう、田島は豆鉄砲をくらった鳩のような表情で問い返す。三橋は、ほとんど地団駄を踏むような勢いで田島の目を覗き込んだ。頬がかっと熱くなる。
なんでこんなに無力なんだろう、オレの言葉……!
「あの、あのねオレ……っ。グラウンドで、オレ、ひとりじゃないから、田島君がいるから! オレいつもマウンド立ってると、右肩の後ろのほうに、田島君、いつもいるから!」
自分の後ろに、七人いて。目の前にひとりいて。それがみんな、敵じゃないっていうことが、何かものすごい奇跡のように感じる。右肩に田島君を感じているのが、どれほどの気分かってことを、何と言って、どんな声で、どうやって伝えたらいいだろう。
「だから、言わないで。あの、さっき……みたいなこと」
(オレ打てなかったよ。役立たずだったよ?)
違うんだ。違うんだ。それは間違ってるんだ──そう、思いたい。
ひょっとしたら単なる自己弁護なのかもしれない、そんなぎりぎりの望みを振りかざして。
「みはし……」
駆られるような気分で、三橋は田島の手をつかんだ。握りしめたその掌は、あろうことか、自分のものよりも冷たかった。
(こんな……思いを、田島くん)
視界が、にじむ。喉がよじれる。
「だっ、だってグラウンドで! 意味ない……ことなんて、ひとつもないからっ!!」
叫ぶと同時に、涙が決壊した。
最初の一粒が落ちてしまえば、あとはとどまるところを知らなかった。自分は一応、なぐさめるつもりでいたのではなかっただろうか。結局いつも通りだと、内心溜息をつきながら、三橋は田島の手を握る力を少し強めた。
──伝わればいい。伝わってほしい。
そう、ひたすらに念じながら。
「あっ、でも、悔しい……よね?」
がらんとした表情の田島を、泣きやんだばかりのはれぼったい瞳で見つめながら、三橋は言い訳をする子供のような口調でつぶやいた。
「そうだよね、悔しいんだよね。ごめん、聞いてあげられなくて……。あのね、悔しがっていい、よ。グチ、も、言っていいよ。オレ、ちゃんと聞くから」
「……お、まえ」
「でも、たぶん、みんなも同じだと思う……けど」
そう。それだけは、自信を持って言い切れる。
みんな、待っている。田島君が笑うのを、打つのを、そこらじゅう駆け回るのを、あわよくば人の弁当を失敬しようとするのを、シモネタかますのを。時にはうまく行かなくて、へこんだ気持ちをあらわにするのも。
きみの一足一挙動が、全部、待ち遠しいんだ。
「みはっ……」
田島の顔が、笑みを刻んだままふっと揺らいだ。
「お前っ……ホント、すげーアホだよなぁ」
震える語尾に、三橋はびっくりして向き直った。ばつが悪そうに、田島はかるく鼻を鳴らしながら、握られていないほうの手でこぼれた涙をぐいぐいとぬぐっている。
(田島くんの手……あったかく、なってる)
胸のあたりが、すん、とする。
「……みんなのとこ、帰ろう?」
「おう」
涙が乾ききるのを待たずに、田島は強引に笑った。白い歯をにっかりと、三橋に向けて剥いてみせる。
「……って、なんでまた泣いてんだよ、三橋ーっ!」
「ごめ、ごめん」
田島は自由になった両手をぬっと伸ばして、三橋の頬をつまむと、そのままそれを引っぱり上げた。痛がる三橋に取り合わず、「やっぱ笑顔のがいいよなー」などと、誰かにも言われたことがあるようなコメントをつけてくる。
空は、雲ひとつない一面の青。
***
「──なー、みはしー」
少し前を歩いていた田島が、後ろに反り返る運動をしながら三橋のほうを見やった。
「う、うん?」
「いー天気だなぁ」
陽に透けて金色にも見える髪を、ふさふさと揺らして三橋はうなずいた。よっ、というかけ声とともに田島は体勢を戻し、今度は立ち止まって真正面から三橋に向き直る。
「サンキューな。元気、出たぜ、ちゃんと」
三橋は息を呑んだあと、深くうつむいて、首がもげそうな勢いでかぶりを振った。全身の血液が頭に向かってラッシュを起こしている気がする。
──ああ、この、眼差し。この、圧倒的なまでの清々しさ。
三橋の胸に、かっと赤い火がともる。
ほんとうは田島君、オレのヘタクソな励ましなんかなくても、きっととっくに分かってたんだ、あんなこと。いつでも『ゲンミツに勝ち』に行く田島君だもの。光を目指しているのじゃない、彼こそが光そのもの。手袋をはめて、バットの柄をつかむ、その一瞬のひらめきに誰もが魅せられる、そんな存在。
けれど、強すぎる光は、必ず色濃い影と二人連れだから。
誰でも、どんなに強い人間でも、影っていう分身を連れて歩いているから。
だから、もしも取り憑かれそうになったときには教えてほしい。呼んでほしい。手を、伸ばしてほしい。その手を握り返してあげるぐらいなら、できるから。
「──勝ったなぁ、オレたち」
田島は大きく伸びをした。百七十センチに届かないその小柄な身体が、そうしていると、まるでジャックと豆の木みたいに空高くどこまでも伸びていきそうだと、なかば本気で三橋は思う。
「また次も、野球できんだよな。たくさん勝ったやつが、たくさん試合できんだよな。あそこに集まってくるヤツら、みんなそれを望んでる。あそこには、野球やりてーって、そういう気持ちが一杯つまってんだよな。それ全部相手取って、あそこに足踏み込むんだ」
いっそ天衣無縫と呼べるほどに、好戦的な横顔。
「──身ィ引き締まるぜ。やったろうじゃんって、思う」
「……うん」
「三橋ぃ、次も勝とうな。その次も、そのまた次もさ。んで、みんなで行こうぜ、甲子園!」
田島の笑顔に釣り込まれるように、三橋も笑った。
(あ。今オレ、ひょっとして、上手に笑えた?)
あと何回、こんなふうに笑えるだろう。あと何回みんなと手を取り合えるだろう。数え上げるのも馬鹿らしくなるぐらい、たくさん、そうできたらいい。それにはきっと、本人のイキゴミってやつが不可欠で。
だから、もうちょっとだけ、調子に乗ってみる。
「げ……ゲンミツ、に?」
「おう。ゲンミツに、な!」
田島は叫ぶと、三橋の手をつかんで勢いよく駆け出した。向かう先には、いつまでたっても戻ってこない二人を心配して探し回っているのだろう、愛すべき甲子園ジャックの共犯者たちの姿があった。
(...Written at 2004.12.10)