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クラスルームの片隅で



 女子の一角が机の上でティーンズ向けファッション雑誌を広げ、またある生徒はベランダで片耳ずつイヤフォンを突っ込んでいる、ある日の昼休み。一方でサッカーボールを抱えながら男子数名が校庭へ駆け出したり、文庫本を読みふけっている生徒や、マンガ雑誌に群がっている生徒がいたりする、そんなごくありふれた、弁当のあとのひとときだった。それが起こったのは。

「────あ」
 呟きは、教室の片隅から発された。
 発生源は、既に1年9組の名物と化している“西浦高校野球部トリオ・プラスワン”のひとり、三橋。もっとも、いつの日も常に何らかの物音、もしくは雄叫びが上がっている一角である。教室内の人間はみな、呟きの発生源が野球部たちであることを確認すると、そのままそれぞれの活動を再開し始めるのだった。
 当の三橋はといえば、自分が一瞬注目されていたということにすら気づいていないに違いない。
「え……っと、もう一回……」
 あたふたと床に降り、呼吸を整える。彼の足元には、小さな角材。三橋が休み時間のたびにこれに乗っかっては、片足で何やらポーズを決めようと足掻いているらしいことは、9組の面々ならばみな知っている──何のための行為なのかは、いまいちどころでなく謎であったとしても。
 床の上に置いたそれに、あらためて片足を乗せる。
 もう片方の足は、胴体に引きつけるようにひょいと上げ、同時に両腕を頭上高く振りかぶる。
 そうして、グラブの中に白球を握り込んだまま、それを胸もとまで持ってくる。
 誰でも知っている、ピッチャーのワインドアップだ。
 ……ただ、三橋がいつも教室の片隅でおこなっているそれは、最後のポーズまで行き着けた試しがなかったのだったが。

(でっ……でき、た……!)
 三橋は声もなく、ひとり喜びを噛みしめる。
 ゴールデンウィークの合宿から数ヶ月間、一日だって欠かしたことはなかった、角材の上でのワインドアップ練習。とにかく“体幹”を鍛えなさいというのが監督の指示だった。
 合宿が終了してからすぐ、夕食後はこの角材に乗るのが日課となった。じきに、夏の初戦の対戦相手が決まると、帰宅後に練習など一分たりとも不可能になったため、角材を教室まで持ち込んで、休み時間となると挑戦を続け、そのたびに失敗を重ねていたのだった。
 この日も、そんなふうにして淡々とトライ・アンド・エラーを続けていた。さすがに合宿中のころのように、片足を上げた瞬間に転倒するようなことはなくなったが、あの時監督がやってみせてくれたように、ぴたりと身体を止めるなどという芸当は一度もできずにいた。もうバランスを崩して床に足をついてしまうのが、なかば当たり前ぐらいに思い始めていた、そんな矢先に、である。
「あれえ、三橋。それ、できるようになったんだ?」
 やたらと冷静なコメントは泉のもの。声をかけられた三橋は、肩をぴくんとすくめて角材から飛び降り、紅潮した顔を伏せてせわしなく何度もうなずいた。
「う……ん、うん。いっ、今さっき」
「やったなぁ、三橋ーっ!」
 前触れもなく飛びついてくるのはいつも田島。角材の上で身体をよろよろさせなくなっても、田島のタックルにはいまだに耐性がない様子の三橋である。
 ワインドアップを成功させた本人よりもうきうきとした様子で、田島はペンケースからマジックを取り出した。
「よーし。じゃあな、お祝いに……」
「──待て、田島っ!」
 さっと顔色を変えて、田島を取り押さえにかかる泉。もがく田島。
 昼下がりの教室に、廊下の向こうにまで届きそうな声が響きわたった。

「ワイシャツの背中に、“1”ってでっかく書いてやる! なっ?」

 取り押さえる手は緩めないながらも、泉の口からは思わず溜め息が漏れる。
「……オレの予感、どうか当たってませんようにって祈ってたんだぜ、一応……」
「なんでよ! お祝いなんだからさぁ、三橋の大スキな“1番”がいいに決まってんじゃん! 制服でもエース背負ってられるんだぜ?」
「それを喜ぶのはお前ぐらいのもんだろうがっ!」
 当の三橋を置き去りにして、事態はいつの間にか取っ組み合いに発展してしまっている。
 苦笑いを浮かべながらその様子を眺めていた“プラスワン”こと浜田は、自分の横に無言でたたずむ三橋の顔をふと見やり──身体中の力が抜けるのを感じた。
 ……なぜならば。
 笑っているのだった、三橋は。おどおどと、それでいて心から嬉しそうに、頬を染めて。

「……泉、泉。ミハシの顔」
 浜田の呼びかけに振り向いた泉は、示されたものを見た瞬間、海よりも深い溜息をつく。
「うわ、マジかよ……」
「ほらねー!! だから言っただろ、三橋にはコレがイチバンなんだってさ!」
「もはや手に負えないレベルに達してるな、この天然コンビ……」
 乾いた笑いとともに呟いて、浜田は幼なじみに目をやった。三橋は、どう控えめに評価しても挙動不審に見える微笑みを満面に浮かべている。小さいころ、自分が褒めてやるとよく浮かべていた表情そのままに。
「……嬉しいか、ミハシ?」
「……え、えへ……っ」
「気持ちはよく分かったけど、とりあえずやめとけ? 悪いこと言わねーから」
 その言葉に納得したのか、していないのか、ひとまず自分から田島に寄っていくことはしない三橋である。
「オレらのエースの! ワインドアップ成功を祝って──」
 泉の腕からようやく抜け出した田島が、教室中に呼びかける。
「関東のイッポンジメ、行くぞー!」
「って、行くのかよ!?」
「つーかこーゆー時って一本締めか、フツー?」
「ったくこのアホは……」
「ま、とりあえず行っとけば?」

「よー────っ!」

 パンッ!

「よっしゃー! この調子で甲子園だ、なぁ三橋!?」
 田島が叫べば、勢いに呑まれたように、三橋がこくこくとうなずいた。
 しかし、9組の面々は既に知っている。この冗談のような、寝言のような雄叫びが、われらが西浦野球部のまぎれもなく総意であることを。
 教室の片隅で立てられたそれは、“望み”ですらなく。
 叶えることをあらかじめ想定した、“誓い”。
 ……呆れるというか、いっそ感心するというか。

 窓の外に目をやれば、グラウンドからの照り返しが、網膜を一瞬ホワイトアウトさせた。
 ──夏は、もう、すぐそこまで。



(...Written at 2004.12.24) 



 バカバカしいネタなのに長くてスミマセン。つーか、櫻井の書くものはいつもどうしてこんなに長いんだ…(汗)
 05年1月号関連の小ネタです。思いついた瞬間、仕事中だったのに(!)思わず吹き出しそうになりました。あの時の笑激を、少しでも皆さまにおすそ分けできればと思って、慣れないギャグなぞを書いてみましたが、はてさて結果のほどは…?
 田島がホントにこんな暴挙に出るかどうかは分かりませんが、もしされたら三橋、喜んじゃうと思うんですよね、挙動不審としか言いようのない笑顔浮かべて。……これでも一応、おお振りで一番好きなのは三橋です(爆)
 それにしてもイカしたクラスだ、9組。もし西浦に入学できるなら、私は絶対このクラスがいいなぁ!



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